【辛口哲学】ノウハウや知識に振り回された時の解毒剤

こんにちは。
剣れいやです。

 

今日はかなり辛口で

ぶった斬っています。

 

相当辛いです。ハバネロ級です。

 

いろいろ学んでいるけど

人生がいっこうに変わらない…

 

そんなことを繰り返していた過去の自分に向けて、カツを入れるつもりで綴ります。

 


 

私は現在、台湾の武術を学んでいます。

その武術の老師 (先生) は、よく他の武術の話もしてくださいます。

この前は、剣術の話をしてくださったのですが、

 

 

その中に、 こんなお話がありました。

 

剣は
音を立てて
ぶつかりあうような使い方ばかりではない

音を立てず
すべらせる
からめ取る

そんな技もある。

 

衝撃が走りました。

音も立てず、
すべらせ、からめ取る剣…!!?

 

 

切りつける
刺す

といった

剣と剣がぶつかりあう破壊的な

激しい攻防戦のイメージとは裏腹な

そんなしなやかな剣術があるとは!!

 

剣とは、細長いカミソリのようなもので、

実は脆いものなのだそうです。

 

だからガチガチぶつかり合うと、 刃が使いものにならなくなってしまう。

 

だから、

すべらせ、からめ取る

そんな技が編み出された。

 

激しい攻防戦が
「剛」の剣 だとしたら

すべらせ、絡め取る技は、まさしく
「柔」の剣

と言えるでしょう。

 

剛の剣術が男性性のパワー

だとしたら

柔の剣術は女性性のパワー

と言えるのかもしれません。

 

男性性のパワーは

直進する、分離させる、支配する、といったキーワードがあり

攻めるパワー

 

それに対し

女性性のパワーは

調和、統合、受容、といったキーワードがあり

受け入れるパワー

 

女性性のパワーは

ぶつかり合うことなく、

しかし相手の力に屈するのでもなく

相手の力をそのまま利用し、自分の力にしてしまう。そんな性質を持っており

 

「境界をなくす、ひとつに溶け合う」という性質もあるため

どんな種類のパワーをも、包括して取り込んでしまえる特性があります。

 

それは、合気道にも通じる原理かもしれません。
(合気道は日本刀を構えた型から生まれた武術で、 相手から来たパワーを利用して戦う。ゆえに攻撃技がない)

 

 

ここで、さっきの自分の感じ方に、ふと違和感を覚えました。

なぜ、私は

音を出さずに絡めとる

柔の剣術に驚いたのか?

 

それはひとえに、

剣とはこうやって使うものだ!
戦うとこういう音がするはずだ!

という思い込みに縛られていたからでしょう。
(子供のころに祖母の影響で時代劇を見すぎたのかもですが)

 

知らず知らずのうちに縛られている

 

生まれてきて、純粋な目で世界を見ていたときは

すべてのモノに対して、 偏見や思い込みがない。

素直にありのままを見ていた。

 

しかし、ある時、そこにルールができる。

これは、こういうモノ。

これは、こういう名前。

これは、こうやって使うもの。

 

そして、気づかぬうちに、何かに縛られていく。

 

お金とは、こういうもの。

家とは、こういうもの。

男は、こうすべき。

女は、こういうことをしてはいけない。

この年齢だったら、こうなってないと普通じゃない。

 

あらゆる社会の制限が押し寄せてくる。

 

まっさらな自分の感覚が濁り

社会から与えられたフィルターごしに物事を見るようになる。

 

本来の自分が感じていた痛みすら麻痺してくる。

 

純粋であることの痛みに耐えられなくなった後は

痛みから逃れるための「何か」を貪欲に探す日々。

 

分かりやすくいえば、現実逃避をしはじめる。

現実から逃げているんだから、現実が変わらなくて当然。

 

 

そういう日々に、終止符を打つための方法とは?

何かを学ぶ事や得ることの意味を、絶えず自問することに他ならない。

 

ほめられる為に学ぶ

点を稼ぐ為に学ぶ

単位を取る為に学ぶ

学ぶ為に学ぶ

 

そういった

学校教育で培ったクセを捨て

 

人生において

何をしたくて

これを学んでいるのか

 

絶えず問いつづけること。

 

 

 

誰かの評価を得たいから?

認められたいから?

最初はそういった動機かもしれない。

 

でも

その動機のままでは、

きっといつか

その道の厳しさに向きあえず

「飽きた」という言葉をつかって逃げてしまう。

 

「学ぶ」という行為は、今の自分に何かを付け足すことではない。

 

「学ぶ」ということは、何なのか?

 

それは、究極的に言えば

過去の自分を捨て去るために

新しい刺激を得る行為

 

それに真っ向から取り組めない人は

これまでの人生を変えたくないから

過去も捨てないで取っておく。

 

だから、知識欲を満たし続けるだけの、ノウハウコレクターになる。

 

学べば学ぶほど、重くなって動けなくなる。

 

そして

「学ぶのやーめた」となる。

 

学ぶ前と、何か変わっただろうか?

 

 

気分は一時的に変わったけど

現実は変わらない

 

不毛なサイクル。

 

 

 

 

自分が

この先に何を望み

 

人生をかけて何をしたいのか

 

そして、どこにたどり着きたいのか。

 

望むことを許可した先に

何を

なんの為に学ぶのか

 

考えつづけなければ、何も変わらない。

 

 

学べば学ぶほど

深遠な領域にたどり着く。

これまでの自分からしたら、抽象的すぎて、理解するのが難しくなっていく。

 

 

だからこそ「理解」にたどりつくのをあきらめて

曖昧になりがち。

 

 

 

学ぶだけなら、趣味で終わる。

 

学んで得た知識は

ただのツールでしかない。

 

 

 

自分がどう生きていくのか、

それがツールによって決まるわけがない。

 

自分の人生が

主軸に無ければ

ツールに振り回される人生になる。

 

 

過去の流れに自分を乗せて

過去の流れを判断基準にしているかぎり

人生が変わる事はない。

 

 

今、この瞬間

何を感じ

どこに向かおうとしているのか

 

なぜ、学んでいるのか、

学んだ先に

何を捨てるのか。

 

絶えず考えて生きる。

 

貴重なエネルギーを費やして学んだ、そのツールを

人生で最大限に活かすために。

 

 

成長は、痛みを伴う。

(ネイティブアメリカンの言葉)

 

 

剣れいや

 

 

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