こんにちは。
剣れいや(つるぎれいや)です。
私のプロフィールを読まれている方はご存知かもしれませんが
私はアート作品を作ることにトラウマを持っていた人間でした。
人によってはアートっていうと
敷居が高いイメージもあるかもしれません。
もしかすると
人前で「アートが好き」とか口をすべらせたが最後、
ゴッホやモネやダリといった巨匠の作品のウンチクを語れるくらいじゃないと、「なんだ、モグリか・・・」と言われるんじゃないか・・・
そんな気がするかもしれません
(そんなことないか。笑)
とは言え、日本人の傾向として
アートに対し心理的な敷居の高さを感じがちなようです。
私はその理由が、日本の美術教育にあると思っています。
西洋美術を基礎とした「アートは学問である」という認識。
そして、評価基準をもとに優劣をつける制度。
評価されるのも怖い。
評価されないのも怖い。
ならば
何も創らないのがいちばん安全・・・
子供の頃は自由にいろいろ創っていた私でしたが
その道に進もうとして、本格的に美術やデザインを学ぶ過程で、自分の作品が評価されるのが怖くなり
やがて「何も創らない」という選択をするようになりました。
そんな私に転機がおとずれました。
社会的な評価や収入を得ようと頑張っていた頃でした。
職人として独立し、取引先から信頼され、継続して仕事をもらえるようになり、収入も増えた。
しかし、自分の内面がまったく幸せじゃないことに気づいてしまったのです。
私はその後、ヒーリングやセラピーを受けながら
自分の中には「ほんとうに表現したいもの」があるのだ、ということに、だんだん気づいていきました。
私はひとたび職人をやめ、学んできたヒーリングやセラピーを仕事にするようになりました。
しかし、自分が本当に表現したいものは何なのかは、依然としてわかりませんでした。
何かの役に立つために。
誰かの評価を得るために。
そのために、何かをする。
それこそが素晴らしいことなのだ。
そう信じて今までやってきたけれど
そのまえに、一番大切なことを置き去りにしていたのではないか。
そう考えるようになりました。
自分のなかにあるものを
表に現す行為。
それが表現。
「表現とは学ぶものだ」と思っていた私を変えていった概念です。
(表現アートセラピー 吉田エリさんの言葉)
学べるのは手法(テクニック)であり
表現自体は学べない。
なぜなら、表現したいものは
最初から自分の中にあるものだから。
そして、
何年も探し続けたある日
ついに私は、自分の表現と出会いました。
ただ、今感じていることを表す。
それがたとえ
自分の中のトラウマとか
恐怖、不安、苦しさであったとしても
それらを嫌がることなく
無視することなく
ちゃんと向き合って表現する。
誰の目も
誰の評価も気にせず
自分のなかにあるものを
ただ表に出すということ。
それが、ようやく
できるようになっていったのです。
そして
2019年も終わりを迎えようとしているこの時期
私の活動も大きく方向転換することになり
なんだか、これまでの持ち物を一斉に片付けたくなりました。
心理的に断捨離モードに入ったのです。
断捨離祭りをしていたら、私が「暗黒時代の作品」だと思っている作品がわんさかでてきました。
私の作品には、置き場所も、行き場所もないな・・・
ばくぜんとそう感じました。
かといって、捨てるのも何か違うような気がするし・・・
それはまるで
自分の中からようやく出てきた本音が、とても邪魔に思えたときのような、なんとも言えない気分でした。
あきらかに「ある」のに、
それが「ある」ことで
むしょうに都合が悪く感じる。
見ないようにしているほうが楽だと思える・・・
という感じです。
そんな矢先、ちょっと体調を崩した日に
相方が「作品と一緒に寝る」という提案をしてくれました。
なかばぼーっとしながら
「作品と一緒に寝る」をやってみたのですが
これまで感じたことのない深い安心感を感じました。
さらに
私が扱いに困っていた作品たちが
「一緒にいてもらえて、とても安心している」ようにも感じました。
作品たちも、生みの親に煙たがられていたら、それは苦しかったろうと思います。
そして、ふと思いました
もしかして、これは・・・・
私がカナダのアートセラピストからトラウマを解放するセラピーを学んでいた時に知った
ユング心理学の理論。
自分の中のネガティブなイメージを可視化し
そのイメージと一緒にいてあげる。
そのイメージに語りかけてみる。
そのイメージと踊ってみる。
その経験が、
自分の内側にゆるやかな変化と、深い癒しを起こす。
分析を主体としたフロイト心理学とは異なるアプローチ。
今思えば、
分析して判断し、解決しようとする「男性性エネルギー」ではなく
ただありのままを認めて、受け入れる「女性性エネルギー」を使った手法だったのでした。
私は男性性が過剰になりがちなのもあり
いつのまにか自分自身に対する「受容」や「癒し」が後回しになっていたのです。
私にとっての作品。
それは、誰かに評価されるためのものでもなければ
何かの役に立つためのものでもない。
ただありのままの自分を肯定することで生まれてきた。
そしてただ、一緒にいてくれる。
そして、その存在そのものが
私にとっての癒しになる。
そういうものだったのです。
自分の経験は
自分にしか分からないことだし
自分以外に理解者はいないのだ。
でも、どうにかしてその孤独を紛らわそうとしてしまっていたのだな
作品たちが、教えてくれました。
私が見ないようにしてきたものこそ
私のいちばんの癒しだったのだと。
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剣れいや
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