ちいさなチャレンジはいつだって、ちいさな挫折感と隣りあわせ

ちいさなチャレンジは、いつも

ちいさな挫折感を運んでくる。

 

どんなにちいさなチャレンジでも

チャレンジである以上は、魂の崖っぷちだ。

 

誰かにとって、

チャレンジなのかどうかじゃない。

 

自分自身にとって、

チャレンジかどうか、なんだ。

 

 

他人に

「そんなのチャレンジのうちに入らない」

なんて言われる筋合いはない。

 

何年も、家から出られず

苦しんできた人にとって

 

部屋の扉を開けるという

たったひとつの行為すら

生命の危機のように感じる。

 

近所のコンビニに行く

店員に商品を渡す

それだけでも恐ろしいことのように感じる。

 

店員に

「お箸はお付けしますか?」

なんて聞かれた日には

頭の中がパニックになって

 

とっさに口から出る言葉を制御できない。

 

そんなレベルからでもいいんだ。

 

 

 

どんなちいさなチャレンジも

いつだって

はじめる価値がある。

 

生きているかぎり。

 

 

どんなちいさなチャレンジでも

つづけていけばいい。

 

 

たいせつなのは

あきらめないこと。

それだけだ。

 

 

たとえ

あなたのちいさなチャレンジを

 

だれかが馬鹿にしてきたとしても

構う必要はない。

 

 

ちいさなチャレンジを馬鹿にするひとは

いつまでたっても、変われない。

 

 

そして

変われない自分のみじめさに

正当性がほしくなり

 

必死に誰かの夢にケチをつけ

いつも誰かのチャレンジにケチをつけ

自分自身の夢から目を背けつづける。

自分がチャレンジできない言い訳をつくりつづける。

 

 

そういう人が大半だ。

そんな「大衆」に

だまされるな。

 

 

いつだって、

ちいさなチャレンジの舞台は

目の前に開かれている。

 

今、どんな状況でも

今、どんな場所にいても

関係ない。

 

 

いつからでも

どこからでも

スタートできる。

 

自分でその一歩を

踏み出しさえすれば。

 

 

 

剣れいや

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