こんにちは。
剣れいや(つるぎれいや)です。
純粋な思いで活動をするアーティストや、自分に正直に生きようとする少数派であればあるほど、資本主義社会のシステムに辟易していると感じます。
ただ表現したい。
ただ自分らしくありたい。
そう願うことはわがままなのか。
今回は、アーティストをはじめとするLGBTなどの少数派について、私の解釈をお伝えしていきます。
アーティストは集合意識の願いを叶える存在
集合意識とは、生き物が無意識下で持っている、その生物の固有の集団的意思のこと。
アーティストは、集合意識の願いを具現化し、大衆の目にさらす役割があると感じています。
そう思うには理由があります。
戦争中に、敵の支配下に置かれた国は、たいていその国で影響力をもつ文化人、つまり思想家や作家、芸術家などを根絶やしにするため、抹殺されます。その人たちの創作した著書や作品は跡形もなく焼かれ、言語も奪われます。
その国の文化を取り上げてしまえば、その国に生きる人々のアイデンティティ、誇り、主張、生きる意志すらも奪うことができる。
文化を消し去ることで、その国の精神を消し去ることができる。
逆に、新しい思想、新しい価値観がうまれ、人々がより高いレベルで幸せに豊かに生きられるようになることを文明の進歩と呼ぶ。
感覚が鋭く、感受性が強く、発信力のある一部の人々が集合意識の願いをキャッチし
「もっとこういう生き方がしたいんだ!」
「こういう不満があるんだ!」
「これはものすごくヤバい現象なんだ!」
と、自分の波長で受け止められる様々なメッセージを受け取り、様々な作品を生み出す。
それが受け手の心と共振するから、作品が売れる。
そうでないのならば、文学、映画、漫画、アートやエンターテインメントをはじめとする、衣食住に関わらないクリエイティブな分野が今もずっと存続している意味がわかりません。
繰り返すだけでは無い、変化のきっかけを生み出し、進化するために
常識を壊すアートがある。
繰り返されるルーティンワークで作られる日常は、現状維持を行うためには必要なことかもしれないが、それだけを行なっていても問題点を改善したり、改革(イノベーション)を起こしたりすることはできません。
ルーティンの罠
同じ行動を繰り返す生物がたくさんいるということは、種の存続にとって、ある種の危機。
皆が皆同じことを繰り返す限り、同じ思考回路の生物がたくさんいることになり、その状況で想定外のハプニングが起こったとき、皆が同じ行動をとる可能性が高い。
ではそのとき、どんな問題が考えられるのだろう。
全員が同じ思考回路で、Aという行動を選択したとする。
その場合、
Aの選択で生き延びられた場合は、種の存続が保たれるが
Aの選択をして破局を迎えた場合、種は全滅する。
安定している時代は、想定外のハプニングが起きる可能性は低いけれど、変化の波が訪れる時代には、予期せぬあらゆる可能性に対処していく必要が出てくる。
そこで、種の存続のため、集団の中で特定の割合、これまでと違う試みを行う集団が現れる。
少数派が、可能性を探る役割を担っている説
種の存続のための実験的グループは、既存の集団とは異なる行動をとることで、独自の進化を遂げようとします。
それは、貴重なチャレンジなのですが、賭けでもあります。
その種の集団におけるパイオニアであることは、
「維持する役割」の集団よりも、多くの「失敗」※ を経験する運命にあり
さらに、高度な文明を築き上げた現代社会において「失敗しまくる少数派」は、常識や世間体などの、実体のない概念を重んじる人たちの攻撃にさらされることになります。
それでもなお、パイオニア気質を持つ一定数の集団は、これまでと同じことを繰り返すことに価値を見出せず、チャレンジを繰り返します。
その結果、新たな発見をすることで、既存の社会に対して新たな価値を提供することができます。
それは、種の進化の鍵を握っている存在という見方もできるかもしれません。
資本主義社会という大衆向けシステムの正体
数年前、私は パートナーの鏡ざゆら を通じて、ある言葉を受け取りました。
「何かが出来ないときは、何かが足りないのではなく、何かが余計なのだ」
この言葉はシンプルですが、奥が深い言葉でした。
本来であれば、自分の資質を生かして、好きなように動くことが一番スムーズなはず。しかし、教育によって、人と違ってはいけないのだと教わり、何をやるにも足並みをそろえる癖をつけていきます。
常識や誰かの受け売りの概念を山のように抱えてしまっている状態で、一歩踏み出すごとに「自分以外の声」が頭の中にこだまして、結局何がやりたいのか判らなくなってしまうのです。
私が思うに、資本主義社会は
自分の外側に目を向け
自分に足りないと思えるものをみつけ
それを自分に取り入れたいという願望を呼び起こす。
その願望を生み出すのが、資本主義社会のシステムであると私は考えます。
願望の数だけ、商品が売れていきます。
そして、その願望は、人々が自身には何かが足りないのだと感じている限り、増え続ける。
莫大な利益を手っ取り早く得るにはなにをすればいいのか。権力者とよばれる人たちは考えたのでしょう。そしてひらめいたのが、より多くの人が同じ思考回路で生きるよう、様々な媒体を使って教育することです。
そのために、こんなふうに教育していくのです。
・人と違っていることはおかしいことだ。
・大多数と違うことをすると白い目で見られるよ。
・一人だけ違うことをすると、空気が読めない奴だと思われ気まずくなる。
・自分の理想の姿とは、成功者である○○氏のような生活をすることだ。
・自分の理想の姿とは、モデルの○○さんのような顔立ちになることだ。
・女性なんだから、◯歳までに○○していなければ負け組。
・男性なら、年収○○万円くらい稼いでないと負け組。
・女性らしさとは○○であり、男性らしさとは○○。この枠から出ることは理想的ではない。
家族、学校、友人、知人、会社、テレビCM、雑誌、インターネット広告、街中の看板・・それらによって繰り返されるメッセージ。
それらが社会の常識になっていきます。
私は、人間は本来、世間体とか常識とか意味不明なものに縛られるような存在ではなく
好きなように、生きたいように、自分の人生を選べばいいと思っています。
理想論ではありません。
その生き方が、充実感を生み
エネルギー的な余裕を生み
余裕があるからこそ誰かのことを思えるようになる。
エネルギー的に、最も効率がいいシステムです。
しかし、すでに自然の摂理から切り離された私たち文明人を無意識下で導いているのは、純粋な生きる意思とすり替わった、何かなのです。
その結果、大多数と同じであることが良しとされ、少数派が生きづらい状況を生む。
そのスパイラルこそが、アーティストをはじめとする、資本主義社会でチャレンジをする人々や少数派が生きづらい原因ではないでしょうか。
新たな時代を生き抜くために
冒頭で、「真のアーティストは集合意識の願いを叶える」と書きました。
集合意識の願いとは
「生命維持というルーティンを超えて、自分らしく生きたい」
「これまでの自分を超えて進化したい」
「変化しつづける新しい時代を自分の力で生き抜きたい」
という、普遍的な願い。
多くの現代人が、生命として根源に持っている、その願いに気づくことなく同じことをくりかえすだけの日常を生きています。
アーティストは、そんな凝り固まった社会の常識に、一石を投じます。
本当の自分らしさや、自分の魂について。
建前ではなく、本音が望む自分の幸せについて。
無邪気な子供のように、問いを投げかけます。
それが、自分を抑圧して生きる人々にとっては
うっとおしく、わずらわしく感じられることもあるでしょう。
しかし、そこから目をそむけ、既存のシステムに埋没することで現実に何が起きているのか・・・
戦争、犯罪、自殺、いじめ・・・
自分の正しさを主張することはできても
自分の純粋な願いを表現できないもどかしさが
現代社会を覆っている。
これらの社会現象について
「いじめは良くないよ!」「戦争反対!」と叫んだところで
「じゃあ辞めようか」とはなりません。
因果の法則
「現象」は因果の法則で発生しており
現象化しているものは「果」(結果)です。
結果を変化さたいのならば、それを生み出している「因」(原因)に目を向ける必要があります。
自分が行っていることが正しいかどうか。それを判断するには、実った果実を見ればいい。果実がカオスならば、その方法は間違っている
これは、私が人生の教訓にしている言葉のひとつです。
ITの発達で組織に依存しない生き方を選べるようになり、いよいよ一個人が社会に翻弄される時代が終わろうとしています。
自分を知り、自分を活かすことさえできれば
資本主義社会を逆手にとって、自由を謳歌できる。
そんな少数派の時代がやってきている予感がします。
剣れいや
「【考察】自分に正直に生きる難しさ。アーティストや少数派が資本主義社会で生きづらい理由」へのコメント
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