流れの速さに翻弄されない生き方。感情の記録

こんにちは。
剣れいや(つるぎれいや)です。

 

昨夜からずっと雨を降らせていた低い雨雲が、今朝すごいスピード動いていくのを見ました。

 

雲の合間から見えた、深く澄んだ青空色に感動すると同時に

「低いところにあるものって、すごいスピードで動いているように見えるんだな」と、しみじみ。

 

もっとずっと高い空には、この雲より何十倍も速く動いている雲があるのに、とてつもなくゆっくり動いているように見える。

まるで止まっているかのようなスピードに見えるのだ。

 

ふと、人生も同じだなと感じ

過去の自分のノートに見つけた内容とも重なっていたので、まとめてみようと思います。

 


昨日の記事で、

私は現在「精神的な断捨離期間に入っていて過去のノートを整理してます」ということをお伝えしました。

 

要は内面整理です。

 

で、また「なんかこれ面白いな」と思える記録がありました。

 

このときのメモは、最初に

「くやしい」

がたくさん出てきていて

「くやしい」

「涙がとまらない」
「なんなんだこの感情は・・・」

「くやしい」
「くるしい」

などがたくさん出てきていたようです。

 

そのあとのメモで、自分の現状を振り返っていました。

 

 

不思議なんですけど

 

ありのままの自分の感情を出せたあとは

 

「余計なものに洗脳されていない、ありのままの自分の思考」

ができるようになるんですね!

 

だから、自分がつまづいていたこと

自分が自分でいられなくなっている原因が

あくまでも自分の中の知性(風のエネルギー)を用いて、どんどん究明していけるようになる。

 

きゅうめい。

 

究明と、救命って同じだなと思います。

 

真実を究明することは、そのまま

自分の中で窒息寸前だった「ありのままの自分」の命を救うことだから。

 

 

でも、その精神的外科手術みたいなことを自分でやるという、それが辛いのだ。

(自分で自分を手術なんて、まるでブラックジャックですね。メンタル面のだけど)

 

 

自分にしかできないのだ。

 

やり方が分からなかったら、わかっている人に教わることはできる。

 

そして、見守ってもらうことはできる。

 

でも、実際にやるのは、あくまでも自分なのだ。

 

 

遠い昔に身につけてしまったクセ。

 

自分を信じずに、他人を信じてしまったこと。

自分の魂ではなく、自分の優位な立場を守るために、相手の意見におもねてしまったこと。

 

 

自分の力では変えられないのだと信じて

いまだにそれを続けていること。

 

 

ほんとうは、

もう終わりにしたい

 

でも、いまだに終わらせていない。

 

 

 

自分自身が、自分自身に裏切られた悲しみと怒り

 

それらが、いまの自分に向けて降りかかってくるように感じる。

 

 

こんなの、逃げたくなるに決まっている。

 

 

でも、逃げたくない。

前へ進みたいから、突っ込んでいく。

 

 

突っ込んでいって、救出するのだ。

 

それが、自分への愛。

 

 

今の状況が嫌ならば、自分の手で変えるしかないのだから。

 

 

それを繰り返し、2019年、ここまで来た。

 

 

メモをみながら、

2016年の自分も頑張ってたんだなあ

としみじみ。

 

確かに、乗り越えた今から振り返れば

どこでつまづいてたかわかる。

 

でも、だからといって

過去の自分が未熟だったとか

過去の経験が無駄だったんじゃなくて

 

過去に感じていた、本物の自分の思いは、やっぱり本物なんだなと感じた。

 

なので、過去の自分を振り返った記念に、ここに書き残しておこうと思います。

 

 

以下、2016年のメモから抜粋


2016.10.14

 

もうムリだ。自力ではムリだ・・・

しかし、自力の「自」は、

過去の「自」のイメージのことだ。

(過去のセルフイメージのままでは進めないということ)

 

社会軸から、自分軸になる苦しさと

自分軸から、魂の仕事に到達する苦しさ。

(奴隷が人間になり、人間が魂で生きるようになるプロセス)

 

 

社会において、出していないものは無いものと見なされる。

 

表に出さない才能。

思っているだけで言わないこと。

ひらめいたけど使っていないアイディア。

創ったけど公開していない作品。

 

それらはすべて、私の中に封印されているも同然。

ぶっちゃけ、無いも同然。

 

 

人生はまるでヒッチハイクだ。

 

「あんた誰?」

「何がしたいの?」

「何ができるの?」

「どうするつもりなの?」

「どこに向かってんの?」

 

運よく乗せてくれた運ちゃんにきかれているセリフだ。

 

 

 

運転って、

「運」を「転」じるって書くんだね・・・

 

自分の人生を、ちゃんとハンドルにぎって運転しなきゃだな。

 

 

誰かに運転させて

「運転してるの自分じゃないから仕方ないよね」とか言い訳してる場合じゃない。

 

私は今どこにいて

どこに向かおうとしているのか。

 

私は誰なんだ。

 

今どこにいるんだ。

 

どこに向かおうとしているんだ?

 

 

もういちど人生を洗い直そう。

何がしたいか、ハッキリさせよう。

 

結果ばかりを妄想していたけど、実際に何をやるのか、だ。

 

 

「何をやればいいかわからない」
「やりたいことがわからない」

それは手段を探しているから。

 

よく考えてみよう。

たとえば「料理をしたい」と思い立った。

 

じゃあとりあえず、何をつくるかわからないけど

「目の前にジャガイモがあるから、包丁で切ってみよう」

なんて言って、料理をはじめる人はなかなかいない。

 


必ず、方法がある

過去の記述を、今の自分の視点で振り返ってみる。

もうムリだ。自力ではムリだ・・・

しかし、自力の「自」は、

過去の「自」のイメージのことだ。

 

過去の自分のイメージでは無理かもしれない。

過去の自分が選んできた生き方

これまでの自分のやり方では無理かもしれない。

 

でも

これから新しい自分として選ぶことはできる。

新しい自分が選ぶ、新しいやり方だったら可能なのかもしれない。

 

 

社会軸から、自分軸になる苦しさと

自分軸から、魂の仕事に到達する苦しさ。

 

苦しさには2種類あって

自分じゃない自分として生きている、仮面の自分でいることの苦しさ

新しい自分に生まれ変わろうとするときの、過去の自分との別れる苦しさ

 

どちらも苦しいけど、その2つの苦しみの質には雲泥の差がある。

 

 

目の前に延々と続いていくように感じる、現状維持の不毛さに対する苦しみなのか

 

まだ明かされていない未来の手前で、希望の扉をひらく怖れに立ち向かう苦しみなのか

 

 

 

これまで得てきたことをヒントに、自分の中から答えを導き出そうと試行錯誤していた自分。

 

 

「これかもしれない」というものを導き出して

それを元に行動していって

 

行動したら答えが出るから、実った果実をみて、自分を振り返る。

人生はこの繰り返し。

 

どんなツールを使ったとしても

どこかのプロセスをすっ飛ばせるわけではない。

 

だから、よく言われるような

どのツールを使うのが正しいのか?という質問自体が、ズレているんだと思う。

 

 

「このままの人生は嫌」

「これが続くのは、何か違うと感じる」

 

という、自分の本音を受け入れてあげること。

 

 

自分にOKすること。

 

 

そこからがスタート。

 

 

嫌だと思うことがあるからこそ

「こう生きたい」と思う人生が見えてくる。

 

「これをやっていきたい」と思うことが見えてくる

 

 

本当にやりたいことなのかどうかは

やってみないと分からないけど

 

 

だからこそ

やってみる価値がある。

 

 

 

 

剣れいや

 

 

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