こんにちは。
剣れいや(つるぎれいや)です。
今回は自分の内面を綴ったエッセイ調です。
「自分を愛する」って言葉にするとシンプルだけど、本当は底知れぬほど深い言葉。そして、なかなか難しいことなんだなぁーとしみじみ感じたので、残しておこうと思います。
私の根底に流れているものに気づいた。
私の根底には、ひんやりとした静謐さがあった。
しかし、湖のようにとどまっている類のものではなく、常に流していく風と共にある。
湖面のうえにサッと吹き抜ける風。
苦しみも、苛立ちも、なにもかも洗い流し、新しい風を送りこむ。
私は静謐さをたたえた子供だった。
その冷静にものごとを見ていた子供が大人になって
それを忘れていた。
その静謐さの陰には、闇が広がっている気がして、それは、いまだに目を背けたいものだったんだ。
なんだか急に、視界がひらけて
自分自身をまっさらな目で観れるようになった気がする。
まっさらな目って、ずっと難しかった。
世間のフィルターを通して見ることが客観視だと思っていたし
そのフィルター越しに世界を見ていたら、それ以外の視点なんか持てると思わないから。
でも、あった。
まっさらな目。
幼いころ、なんのフィルターもなしに、自分の目で見て、感じていたころのあれだ。
不安を麻痺させるためのふわふわした極度の全能感でもなく
ただひたすら怖くて動けないときの惨めさでもなく
あ。私ってこういう人間なんだな
という、自分をみつめる冷静かつ穏やかな目がある。
これまでのような監視ではない、おおらかに見守る視点。
この違い、大きいな。
ヨガで聞いた、自分を見つめる「目撃意識」に近いのかもしれない。
私のエネルギーの軽さは、軽率に何かを行うためにあるのではない。
私が幼いころから抱え続けてきた重々しい絶望。
それをどうやって乗り越えてきたのか。
何が原因で、この世界はこうなっているのか。
そしてこの先、どうなっていくのか。
それらを俯瞰して、情報収集し、分析し、私のありのままの感覚に共鳴する人たちに、重々しくなりすぎないように伝えていくためなんだ。
そのための「軽さ」なのだ。
絶望にどっぷり浸かっていたら、分析もできないもんな。
自分を好きになるとか、受け入れるとか、耳障りのいい言葉をよく聞くけど
それって妥協とか、自信過剰とか、自己満足とかと混同されがちだ。
でも、
真の意味で自分を受け入れていくには、
冷静に自分を見ることができなければいけないんだ。
舞い上がったり、浮き足立った気持ちではなくて
地に足つけて、冷静に自己分析して、
自分の持つ特性を
どう使うと良く出るか
どう使うと悪くでるかを知り
生きていく上で、どんな影響があるのか知った上じゃないと
自分をぜんぶ受け入れるってことにはならない。
自分を愛するということは、自分のいい面しか見ないで突っ走ることではない。
これまでの失敗も、最低な面も、それも自分だと認めること。決して切り離せない自分の一部だから。
いや、むしろ、その闇に葬り去りたい黒歴史上の自分こそが、
いちばん抱きしめてもらいたくて、孤独で、
そんな中、汚いものをみるような目でみられ続け
絶望して、泣いている自分なんだから。
その自分を切り離して進もうとすれば、必ずどこかで足を引っ張られるのだ。
というより、本当は離れたくない、抱きしめたいと思っているんだよ。進もうとしている自分が。
自分を愛するって、深い。
一大決心してから3年間、ずっと自分と向き合っていろいろ昇華してきたけど、それでもまだまだボロボロと課題が出てくる。
でも、乗り越えるたびに、新しい自分のような、本来の自分らしきものが現れる。
面白いし、興味深い。
そのプロセスを焦らず楽しんでいきたい。
その地道な一歩一歩が、幸せへのいちばんの近道だから。
剣れいや(つるぎれいや)
「自分を愛する=自分のいい面だけ見て突っ走ることではない。」への 1 件のコメント
自分を愛するとは、自分の良い面しかみないで突っ走る事ではない。
すごく心に響きました。
あ、私ってこういう人間なんだなって冷静に見て、ありのまま受け入れる。
まだまだ自己否定や現実から目を背けがちな私ですが、
少しずつ、自分のありのままを受け入れられるようになりたいです。