久々のステージ練習。
今回は舞踏の基本姿勢と、基本の動作「立つ」「歩く」「走る」など。
舞踏には振り付けが無い。
だから、非常に抽象的な精神性についてのレクチャーになる。
「立つ」が、基本。
しかし、難しい。
身体はまっすぐ。
足と足はくっつける。
手はまっすぐ下。
体全体を固く固くする。
舞踏は、戦後の東北地方にて生まれたコンテンポラリー身体芸術。
だから、バレエや日舞のような柔らかい動きではなく、固い動きが基礎にあるという。
足から生えた根が地球の中心に向かう。
頭のてっぺんからエネルギーが天にのびる。
「地球の中心に向かって、自分のエネルギーを刺す!」
そう言って先生はゴン!と床を踏む。
地球に垂直に立つ。
「ここはスタジオだけれども、そのずっと下に下に向かっていけば、そこには地球の中心、マントルがある。そこに向かう」
やってみると、身体が棒のようになる。
「そのまま、あるく。体を固くしたまま、足をまっすぐ出す。歩くをやっている自分がいるんじゃない。自分がまずここに居るんだ。その自分が、あるく」
自分が真っ直ぐに立った状態で、歩く。
地面に刺さっているので、そう簡単には動き出せない。
ズズ…
というか、
ゴゴ…
という音がしそうな重さをもって、岩のようになった自分の身体を、足が運ぼうとする。
普段、どれほど勢い任せに歩いていたのかを思い知る。反動を使っていたんだ。
自分の存在としての重みを持ち、地球に根をおろしていたら、軽はずみに動くことなんかできない。
動かざるものが動くときの脅威。
ひとつの体験から、いろいろなことを感じる。
そこから、今度は「走る」。
「風のように走るんじゃない。自分が風として走る。あなたは風なんだ」
先生が大きく手を上げて走る。
自分も風になって走ってみる。
体操も、ダンスも、武術も、必ず何かを真似して、お手本通りに動くことからはじめる。
でも、舞踏にはお手本がない。
それが難しいから、必死で、全身全霊で、かんがえる。
「それってどういうことなんだろう」
「どんな感じなんだろう」
動いてみながら、試行錯誤しながら、カラダが自分の答えを出そうとする。
そのあとは、つぎつぎと流れるように怒涛の実践。
地球を飛び出す、宇宙と出会う、月の上を歩く、地球に戻って芽を出す、嫌いなものに抵抗する、嫌いなものになってみる、解放、自由になった自分が地球に根をおろす。
実のところ、途中までは「わからない」ことが苦痛になって、頭の中でぐるぐると思考が暴走していた。
ところが、途中から無心になっていた。一通り終えたときにようやく、頭の中のごちゃごちゃしていた思考がすべて止まっていることに気づいたくらいに。
感想を聞かれたが、「眠くなった」としか言葉がでてこなかった。
今、そのときのことを思い出しながら、ひとつひとつの体験を言語化している。
あの時は本当に何も考えていなくて、言葉を超えた領域に自分がいて、たくさんの気づきや発見や衝撃、そして深い安心感に満たされていた。
アート制作をしている時と同じ感覚。
おそらく表現活動をする時、非言語領域の思考で動いていて、日常の思考領域とは異なる位置にいるのだろう。
昔、美大卒のアーティストと話したときに「言葉で説明できるなら芸術は必要ないよね」と言っていたことを思い出した。
言葉で表せないことを表現できるアート。これで私は幼い頃からずっと救われてきたんだと思った。
話はそれたけれども、今回の練習で、精神と身体との結びつきを体感できた。
逆に言えば、日常では心と体がバラバラになりがちなんだな…
なにごとも頭の中だけで完結しがちな現代社会。
溢れんばかりの情報の渦の中でも、自分を見失うことなく「自分として」歩いて行けるように、これからも表現活動に取り組んでいきたい。
剣れいや
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