なんのために、明かりを灯すのか。ある夜の記録

こんにちは。
剣れいや(つるぎれいや)です。

 

今日は、内面の大断捨離をするために、ひとりホテルに泊まりました。

 

そのときの内面の変化と気づきを、書き残しておこうと思います。

 


 

ここのところ、自分の内面がハリケーン状態で、どれが自分の本心なのかニセモノの思考なのかすら分からなくなっていた。

 

まるで難破船だ。

 

嵐に翻弄され、一寸先も思い通りに進めない。

 

 

そんな心理状態だったため、一大決心、一人の空間を確保して内面の大断捨離をすることにした。

 

過去の記事で私は、

意識が未来に向かうときは海に、意識が過去に向かうときは川に行きたくなる、と書いたが、今回は海を選んでいた。間違いなく、意識が未来に向かっている。

 

東京湾の埋立地のあたりの、土地のエネルギーは独特だ。

私は環境のエネルギー(土地の気のようなもの)に影響されやすく、どこで仕事をするかによって思考のパフォーマンスが大きく左右されるのだが、

お台場をはじめとした埋立地を基盤にした街にいると、その土地の過去のエネルギーが極端に少ないためか、一時的にまっさらな思考に戻れる気がする。

とはいえ、私は一ヶ所にとどまると強みが生かせなくなるタイプなので、気に入った場所が見つかってもまた動き続けるのだけれども。

 

 

夕方チェックインして、ホテルの窓から夜景が見えた。

 

少し前の自分なら「綺麗だなぁ」と感じていただろう。

 

しかし今日はおもわず

「人間て、何なんだろう」

 

と思った。

 

 

どこまでもどこまでも、発展し、拡大しようとする。

経済という見えないモノに支配され、踊らされ、その価値観の中に埋没したまま・・。

 

その波を乗りこなせているように見える人でも、思考は経済基盤の上で動いている。

前提がそうならば、仕方のないことだ。

 

・・・そう、これまでは。

 

 

 

数年前から、業界の最先端を走る人から情報を得てきたけど、もう資本主義は終わりかけているという話だった。

 

そして今年に入って、資本主義の終わる足音はだんだんと大きくなっていった。

 

回らない。

回せない。

 

そんな声が聞こえてくる。

 

忘れもしない、311のあった2011年に、私はたくさんの情報を受け取ったが、その中に「恐竜が絶滅する」という例え話があった。

では、誰が生き残るのか?

 

 

次の時代にもっとも力を持つのは、「個人」だと聞いた。

 

「個人」が最強となり、

「個」を生かした人が生き残る時代が来るのだと。

 

 

資本主義が終わって、次に台頭してくる価値主義。

 

価値とは何か?

それは人によって様々に定義されると思う。

 

ただ、私が思う価値とは

「存在(Be)」のことだ。

 

存在とは、ある、ということで、もうすでに言葉で定義したとたんにその意味から外れてしまうほどの広大さだ。

 

安易な表現になってしまうことを恐れずにいうならば

 

この地球であり、自然界であり、わたしたちの身体、いのち

どんどん話がぶっ飛んでくるけれど、さいごは、魂だ。

 

それが、Be。

 

 

そもそも資本主義(Do)の原点を紐解いてしまえば、架空の価値を増やしたり減らしたりして勝ち負けを競うただのゲームである。

資本主義(Do)の原点は「あなたの代わりに私がやってあげましょう」である。

その昔、世界の片隅で、資金の管理を請け負った人間が、架空の価値を回し始めたのだ。

 

そこからゲームが始まった。

 

そんなただのゲームに巻き込まれ、お金なんかよりももっとずっと価値のある「命」が犠牲になってきた。

 

途方もない時間が流れた。

連鎖は止まらなかった。

 

お金を失う恐怖が人々を動かし始めた。

 

命は失われ続けた。

 

仕事がなくなったから、借金が返せなくなったから

そんな理由で。

 

 

いや、意味わからんだろ

 

引き換えようがないんだ

同じ次元で語れるわけがないんだ。

 

 

 

かみっぺら一枚でどうこうなってしまう、そんな命ってなんなんだよ

 

 

 

「じゃあどうやって生きていくんだ」

 

私はずっと幼い頃から、そんな言葉で抑え込まれてきたけど

 

「理想論もたいがいにしろ」

 

 

 

と言われても、

 

 

あきらめられるわけがない。

 

死んでもあきらめない。

 

 

 

 

そして、うすうす感づいている。

 

 

取り戻せばいいのだ。

自分が無意識に外部委託している「何か」を・・・

 

 

 

 

 

夜景を見ていて、もうひとつ気づいた。

 

 

夜景は、ぱっと見れば一面に輝いているように見えるけれども

じつは、ひとつひとつの明かりがただ灯っていて、それが無数に集まり、満点の星より豪奢にきらめているのだ。

 

そして、そのひとつひとつの明かりは、すべて意味があった。

 

 

明かりは、誰かの意図や、思いが灯していたのだ。

 

まるで自然現象のように、勝手に電球が誕生して、配線されて、電気が通されて、灯る、なんてことはあり得なくて

誰かが、何らかの理由で、灯していた。

 

時間を遡れば、そこには電気や電球を発明した人たちがいた。

 

 

目の前の夜景を見れば、そこには明かりを通した人の思いがあった。

 

ある明かりは、人々が夜を安全に通れるようにするために灯されていて

ある明かりは、心が華やぐようなロマンチックな雰囲気のために灯されていて

ある明かりは、安全か危険かを堅実に知らせるために灯されていて

ある明かりは、暗い時間でも快適に機能的に生活ができるよう灯されていた。

 

 

意味のない明かりなんて一つもなかった。

 

そう気づいて、ふと考えた。

私が明かりを灯すなら、どんな思いで灯すだろうか。

 

その答えが出るのは、もう少し後になりそうだった。

 

 

 

なぜなら、今すぐ終わらせなければいけない戦いが待っていたからだ。

 

 

私はこの夜、過去の思考回路のまま暴走し行動しようとしている自分を感じていた。

 

そしてもうひとりの私は直観的に「その判断は間違っている」と感じていた。

 

 

そのため、その夜は一晩中、思考の嵐との対決を繰り返した。

 

 

かの松下幸之助は、大きな決断をするときは三日三晩かけて自らの思考を精査し、最後は肚で答えを出したという。

 

私は、ずっと頭で考える病気にかかっていた。

だから肚で答えを出すために、一晩かけ、思考と一騎討ちで戦った。

 

私は松下幸之助のような経営者ではないので、たくさんの従業員の命を預かっているわけではない。

家族を養うわけでも、何かを背負っているわけではない。

 

しかし、一人で生きるということは逆に言えば、「全世界に対して一対全で向き合う責任」が生じるということでもある。

 

だからこそ、自分一人の人生だから適当に決めて良いということにはならないのだと感じた。

 

地位や名誉、肩書や収入、配偶者、ファミリー、コミュニティ、ファン・・・

あらゆるものに対する執着心を捨てるということは、決して世捨て人になるということではない。

 

 

社会通念状の人間としてのプライドよりも

魂のプライドを選ぶということ

 

 

 

それはすなわち、すべてを愛する生き方ができるか?という最大の試練でもある。

 

これは苦しい。

 

自分と仲間、自分とコミュニティ、自分とファン、自分とファミリー、自分とステークホルダーという図式ではなくて、

 

自分 対 世界なのだ。

 

 

果ての見えない大海原を前に立ち尽くすような

 

大宇宙を前にして漠然と感じる畏怖のような

 

 

途方もない、絶望にも似た自由だ。

何の指針もない。

 

自分の中心と、いかに向き合うか、それだけが鍵になる。

 

 

 

気づけば、夜明けが待っていた。

 

 

剣れいや

 

「なんのために、明かりを灯すのか。ある夜の記録」へのコメント

コメントはありません

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です