世界的舞踏家 大野慶人さんの訃報をうけて。舞踏との出会いを振り返る

鏡ざゆら氏をつうじて、舞踏家 大野慶人(おおのよしと)さんがご逝去されたと知りました。

言葉にならず、ただただ衝撃が走りました。

 

 

私が舞踏(Butoh)というものの存在を知ったのは、美術系の学校に通っていた時に授業中に観せられたビデオがきっかけでした。

 

舞踏家、土方巽。(ひじかたたつみ)

 

大地のような、岩のような、強く固さを感じる動き。

身体芸術という分野があるのだということと、ダダイズムや、ネオ・ダダという言葉もその時知りました。

 

ただ、そのときは「そういう表現もあるんだな」と感じただけで、私がその後、紆余曲折を経て「舞踏」という概念と再会果たすことは予想すらしていませんでした。

 

舞踏〜butoh〜とは、既存のダンスに反旗をひるがえした身体芸術。

 

既存のダンスが現そうとする

生の喜び、明るさ、柔らかさ、軽やかさではなく

 

死や、闇、固さ、重さなどを表現する。

 

私にとっての舞踏

既存のダンスと舞踏はどう違うのかと問われれば。

 

陽と陰

現世と冥界

という対比とも、厳密には違う気がする。

 

だから、歌舞伎と能にたとえるのも違うように感じる。

 

舞踏は、人間の肉体や魂をとじこめる枠を壊し、再生させるような「作用そのもの」であるように感じる。

己の魂や、生きること、自分の肉体というものを追求するためにこそ、死というものに取り組む。

身体的哲学であり、自らの中で繰り返される禅問答のような、問いそのもののようにも感じる。

 

こたえは、ひとつではない。

ひとりひとりが、自分の中の答えを模索し続ける。

 

それは、私が最も取り組みたかったことだった。

 

それを、舞踏という概念との出会いが、気づかせてくれたのでした。

 

表現を模索しながら

私は物心つくころから絵を描き、美術やデザインを学んできましたが、様々なトラウマにより自分の表現を長らく見失い、

そして、私のパートナーでもある舞踏家 鏡ざゆら氏も、同じようにトラウマにより幼少期から行っていたダンスと切り離されていました。

そんな二人は、音楽活動に活路を見出そうとしていたときに、不思議なタイミングで出会ったのでした。

 

鏡ざゆら氏とは10年以上、ともに表現を模索しながら歩んできましたが

鏡ざゆら氏が舞踏というものに出会い、それを私に伝えてくれたことで、私は過去に出会った舞踏と再開することになりました。

はじめて私が舞踏を知ってから、20年近くの歳月が経っていました。

 

 

私が、舞踏というものに再開し

最初に衝撃を受けたのは

 

大野慶人さんのお父様である、大野一雄さんの遺された

「テクニックではなく、魂が先行する」という言葉でした。

 

私はいつからか、自分の表現したいものを見失い、見栄えのいい、評価されやすいテクニックに走っていた。

そしてついに、自分が一体何を表現したかったのか分からなくなっていたのだ。

 

大野一雄さんの言葉に出会って、そう気づいたのです。

 

大野一雄さんの亡き後、ご子息の大野慶人さんが、大野一雄舞踏研究所で舞踏の精神を伝えられているということで、

鏡ざゆら氏は研究所の門戸をたたき、研究生として舞踏に取り組みはじめました。

そして私はその後、鏡ざゆら氏を通して、大野慶人さんの言葉に触れながら自分の表現を見つめることになったのでした。

 

自分が作品をつくるのではない。

自分自身が作品なのです。

 

ひとりひとり、人生を通して経験してきたこと、自分自身のバックグラウンド、そういったものがある。それらを経験してきた自分が、ここに生きている。それこそが作品。

 

それは、テクニックに逃げようとしていた私にとって衝撃的な言葉でした。

 

自分自身のあり方を問われる道でした。

 

 

大野一雄さんの遺した言葉と

大野慶人さんの言葉。

 

それらに後押しされながら、

私は、2016年

大野一雄舞踏研究所の稽古場をお借りして、鏡ざゆら氏と初のコラボレーションを行いました。

 

ざゆら氏は、身体表現を、

私は、絵での表現を。

 

お互いが、トラウマを持っていた分野で、生まれて初めてコラボレーションを行ったのでした。

外側からの評価を得るためではなく

 

外側の目を自分の中から消し去り

自分の魂だけに集中する。

 

外側にあるものの模倣では無く

内側からの表出。

 

これまでの自分の価値観が覆され

自分が求めていた表現にようやく出会えたと感じました。

 

 

私が、舞踏と再開したこと。

それが、今の私につながっている。

 

舞踏は、当時の舞踊界からは「そんなものはダンスではない」と追放されたジャンル。

他人の目や、社会的に作り上げられた枠ではなく、自分の体と魂を追求する舞踏は、異端のレッテルを貼られた。

 

しかし私の魂は、その舞踏によって救われたのです。

 

海で出会った、光の富士

大野慶人さんの訃報を受けたこの日、舞踏研究所の研究生の方々をはじめ関わりの深い方々が、大野慶人さんとのお別れの挨拶のために大野家を訪れ、鏡ざゆら氏も向かった。

 

私はその日、海に行きたい衝動がおさえきれず、ひとり海を訪れていた。

 

1月にはめずらしいほど、日差しの温かい日だった。

波は高く、おどろくほど大勢の冬のサーファー達が、波に挑んでいた。

打ち砕く波に何度呑まれても、また飽きもせずに向かっていく、命知らずの勇敢な背中を見ながら、自分自身のこれからの人生に思いを巡らせていると、陽が傾いてきた。

 

そのとき、海原の向こうの伊豆半島に、驚くべき光景があらわれた。

 

胸に突き刺さるような、強い衝撃に貫かれた。

 

 

 

光でできた富士の山

 

 

神々しくも厳かな

雄大で、堂々たる風貌だった。

 

 

 

この感動を残したい一心でスマホのカメラを向けたが、目の前の感動のひとかけらさえも、写り込ませることができなかった。

一瞬、一眼レフを持って来ればよかったと後悔した。

 

でも、すぐに考え直した。

それも違うような気がしたのだ。

 

写真に撮ることに集中した途端、対象そのものを”ただ見る”ということができなくなる。

たとえ、感動した瞬間の視覚情報に近づけられたとしても、自分の中に感じられたはずのものが、目減りしてしまう感があるのだ。

 

 

魂に刻み込もう。

そう腹をくくった。

 

 

光の富士が消え、夕陽が顔を出した。

気づけば夕陽を見る人の群れ。

写真におさめようと人が集まっていた。

 

太陽が顔を出すと、さっきまでの荘厳な風景は姿を消していた。

 

魂が震えるほどの感動というものは

元気なときよりもむしろ、自分に影響を与えた人や大切な人との別れや、ショックな体験をして心の皮が薄くなっているときこそ、深く染み入るのだという気がした。

 

 

私は写真や映像で、感動を残したいと思った。

それは、誰かにこの感動を伝えたかったということなのかもしれない。

 

それを突き詰めれば、この感動を「今の自分」以外の誰かと共有したかったということであり

 

その「感動を共有したい誰か」には

「未来の自分」も含まれるんだろうと思う。

 

 

でも、私は今、

ただ「今」に集中する、ということを学ぶときなのかもしれない。

 

 

未来に起こりうる何かを想定して、今、反射的に沸き起こる欲求にしたがうのを辞め

今自分が感じていることに集中する。

 

 

そして

 

感動を残そうとするのではなく

感動を自分自身の魂に刻み込み

感動と自分を一体化させ

 

その感動した自分が、この先を生きていくのだ。

ただただ、あの瞬間に感動していた自分として。

 

 

大野慶人さん、そして大野一雄さんが体現していったことを、残された私は、どう受け取り、解釈し、咀嚼し、反芻し、自分のものとして表現していくのか。

 

舞踏というものに影響を受けて、生き方を変えた人間のひとりとして

後日とりおこなわれる大野慶人さんの葬儀に、鏡ざゆら氏とともに参列させていただくことにした。

 

 

大野慶人さんの生前の映像で最近のものをここにご紹介し、終わりたいと思います。

(中国で公開された動画なので表記は中国語ですが、慶人さんのお話は日本語です)

大野慶人さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げします。

Dancing Artist 大野慶人

 

【関連記事】
大野慶人さんの葬儀に参列させていただいた日の記事。

剣れいや

 

 

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