革命のエチュード。ルールはルールを守るためにあるんじゃなくて

ルールとは、そのルールを守ることによって

「より大切な何か」が守られるからこそ、意味がある。

 

常識とか道徳とかの話になると

無条件に「ルールを守ること」が良いことであるかのような文脈で語られる気がするけど

 

ルールを守るという行為はあくまで手段であり

それ自体に価値があるわけじゃない。

 

ルールを守るという行為によって守られる「何か」のほうこそ、メインに添えられるべきものなんだ。

 

たとえば交通ルールは

そのルールを守ることで、そのルール自体よりも大切な「カラダ」や「いのち」を守ることができる。

だから、交通ルールは守ることが良しとされている。

 

もし、

カラダなんてどうなってもいい

いのちなんて、特に価値はない。

と思っていとしたら

 

無謀な運転や、あいまいな判断で

自分のカラダや、他人のカラダ

自分のいのちや、他人のいのちを

危険にさらすことになる。

 

また、社会全体が

「カラダにも、いのちにも、価値はない」

という思想だったら

 

そもそも

「ルールを守ろう」なんて風潮すら現れないし

形だけのルールがあったとしても形骸化し、無法地帯のような社会になる。

 

こうしてみると

ルールがあって、それを守ろうとする人たちが存在する社会は、とても成熟しているように思う。

 

しかし、そのルールが人を縛る場合がある。

 

ルールの目的がズレたときだ。

 

たとえば

そのルールを守ったとしても、本来守ろうとしていたものを守れない、ということが分かったとき。

 

そのルールの価値はなくなる。

 

そんなとき、私たちは一体どうするのだろう?

 

もし、瞬時に本来の目的に立ち戻ることができれば

ほんとうに守りたかったものを守るために、再度ルールのあり方を検討することができるかもしれないし

自分の一存では変えられないルールの組織に属しているなら、そこから去ることを決めたりと

対処法を思いつくことができる。

 

しかし、

そこで停滞してしまうことがある。

 

最大の原因は

自分の意思

自分の思考

この2つを放棄してしまうことにある。

 

この2つは、エネルギーの観点でみると、男性性のエネルギー。

 

意思は、火の性質の男性性。

思考は、風の性質の男性性。

 

2つが揃うことで、変化を起こすための革命のエネルギーになる。

 

しかし、この2つのエネルギーは封印されがちだ。

 

男性性が封印されると、自分の力を発揮できない苦しさを感じる。

 

しかし、抑えつづけるにも限界があるので

無意識は内側にうずまくエネルギーの行き場をさがし、身近な人に衝動的に当たりちらしたり、正論でジャッジしたりしはじめる。

 

本当に変えたいのは、相手じゃなくて

自分自身のあり方のほうなのに。

 

しかしそれに気づかず、無意識に発動する男性性を振りかざしていると、ある落とし穴にハマる。

 

それは

ルールを守ること自体に執着し

ルールの本来の目的を見失う

という落とし穴。

 

魂レベルで持っている、本来の自分の目的のために男性性を発揮するのではなく

目の前のルールに縛られて男性性を振りかざしてしまう。

 

結果、いつのまにか停滞してしまうのだ。

 

しかも、その異変に自分では気づかないまま。

 

 

停滞とは、女性性のエネルギーが過剰になってバランスを崩したときの現象。

 

しかし、男性性の使い方を誤ると、いとも簡単に女性性でバランスを崩す。

 

これはとても皮肉な現象だと感じる。

 

男性性が限界レベルまで過剰になったときに起きるのが「戦争」だけど、

その戦争では、女性性のエネルギーに分類されるカラダとココロが無視され道具になる。

 

戦争は大げさ?

 

もっと小規模なら、

過労死が起きるようなブラック企業でも同じ現象が起きてる。

 

そして、

学校でも、地域でも、家庭でも同じこと。

 

それはモラルというルールによって(むしろモラルを利用して)さりげなく起きる。

 

そして最終的には、自分の中で起きる。

 

自分のココロとカラダを無視して、何のためなのか分からないルールに従ってしまう。

 

なぜ従ってしまうのか?

 

・・・そう。

ラクだから。

 

自分の意思や、思考を使わないって

ラクなんだ。

 

「自分のせいじゃない」と思えるし

「仕方ない」って言えるから。

 

「家族に言われたから」

「会社の決まりだから」

「パートナーがダメって言うから」

「世の中的にアウトだから」

「だから、仕方ないよね」

「本当にやりたいことじゃないけど、〇〇のためだから、今はこれをやらなきゃいけないんだ」

「だから、仕方ないよね」

 

自分の人生を放棄したままでいいなら、それでもいいと思う。

 

でも

もうこれ以上、自分の魂を裏切りたくないなら

社会に白い目で見られることを怖がってる場合じゃない。

 

嫌われる勇気?

 

永きにわたり日本人のDNAに刻みこまれた

「村八分にされたら生きていけないかもしれない」という、恐怖。

 

でも

それより怖いものがある。

 

世の中からバカにされたり

人から非難される可能性があろうとも

自分の魂が正しいと感じる道を歩めないことのほうが怖い。

 

私は思うんだ。

 

日本人のDNAに刻まれているであろう本質は

現状維持や保身に走るためのものじゃないのだと。

 

日本人のもつ

人の心の機微を察する繊細さや

 

多種多様なものを受け入れ、独創的な感性でオリジナルの価値を創り出す

そんな柔軟なクリエイティビティ。

 

そして、ひとたび困難にぶつかったら、言葉を介さずとも一致団結し、目的のためにエネルギーを注げる力。

 

繊細さ

受容性

柔軟性

感受性

協調性

 

本質的には、ひとりひとり違う個性を持ってるけど

 

日本人にしか扱えない特殊な集団的エネルギーはたしかに存在すると、私は思う。

 

 

ひとりひとりが自分らしさを全開にして、ありのまま生きるとき

きっと、

これまでの時代とは異なる次元のルールが現れる。

 

革命とは名ばかりの

体制と反体制派をひっくりかえすだけの茶番劇なら

そんなのは革命じゃないんだ。

 

一時しのぎは革命じゃない。

 

これまでの前提を超えるために

既存の概念があとかたもなく破壊される。

 

それが革命。

 

革命は手段じゃない。

振り返ったとき、あれは革命だった、と言えるだけ。

 

だから革命は結果なんだ。

 

古い概念の破壊と再創造が行われないなら、革命とは呼べないのだから。

 

なにかを変えたいなら

まず自分の中に革命を起こす。

 

革命は、

小さな変化を積み重ねた先に現実化するもの。

 

だから日々、現実と向き合いながら、自分のなかに小さな変化を起こす努力をする。

 

すぐに望んだ結果が出るわけじゃない。

まるで地道な練習のようなもの。

 

しかし、自分のなかで地道に繰り返された

その革命のエチュードは裏切らない。

 

いつか必ず、花開く。

 

 

それは執着心も持てなくなるくらい、やり尽くした先に、だけど(笑)

 

 

だからこそ

じぶんの魂が求める未来に向かうためのルールこそを、大切にする。

 

いつの日か

みんながそうやって生きるようになったら

外側のルールを持ち出して、誰かに向かって振りかざすことなんてなくなると思う。

 

そんなふうに社会が成熟したとき

ルールなんてもの自体、

すでに必要なくなっているかもしれない。

 

私が生きているうちに、ルール不要のそんな社会になるのかな。

 

まだ、分からない。

 

今はただ目の前の道を進む。

今できること、精一杯やる。

 

まだ小さな世界しか観ていない私に描ける、最高の未来に向かって。

 

 

剣れいや

 

 

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