こんにちは。
剣れいや(つるぎれいや)です。
ひとりランチをした後、ぶらりと新宿に向かおうと思った矢先…
以前から気になっていた『刀剣博物館』が近くにある事を思い出し、特別展『花鳥絢爛、石黒派の世界』を鑑賞してきました。
刀装は、刀の鍔(つば)や、目貫などの手のひらに乗るほどちいさなパーツにほどこされた彫刻です。
それらのパーツは、ほんとうに手のひらサイズのものから、ちいさいものだと指先くらいの大きさなのです。
そんな極小の宇宙の中に、職人の表現する魂が『その職人の世界観』という奥行きをもって、繊細かつ確固たる描写で緻密に表現された世界…。
糸のようにこまかい細工に、度肝を抜かれました!!!
撮影は禁止なのですが、その分
生の自分の眼をとおし、身体をとおし、ひとつひとつの作品をしっかりと自分自身に刻み込むように感じることができました。
まず心臓わしづかみにされたのは、洗練された日本刀のカーブの美しさ…。
凛とした静謐さと、研ぎすまされた佇まい。
深い海を矢の如く進む魚のような、鋭く端正な出で立ち。
そして作者によってこんなにも違うのかと驚かされる
刀の微妙な表情の違い…!
本当に一本一本、違うのです…驚きでした。
そして私の心臓に刺さったトドメは、石黒派の刀装。
針のような細い彫りが、繊細で緻密で…なんなんだこの美しさは…!!
刀装という手のひらサイズのちいさな宇宙に躍る、今にも動き出しそうな雉、雀、兔、虎、熊、鯉…
しかし最も感動した意匠は、敢えて動物を描かず海の波を緻密に図式化したものでした。
波という「形を留めぬもの」を、美しく端正に、そして的確に描き出し、芸術の域に高め、遺す。
過美にならず、しかし絢爛さを醸し出す。
夜の海の意識をもつ漆黒の生き物のような、生々しさすら感じる美しい装具でした。
撮影禁止だったので、お見せできないのが残念です。
気になるかたはどうぞ足を運んでみてください。
肉眼で映し心に刻む感動の深さ
感動したものを写真に撮るという行為は、思い出作りにはなるし、とても満足感がありますが、撮影した時点である程度気が済んでしまうのかもしれません。
それに、私の場合は撮影の出来(構図とか光の加減)に気を取られて、そのものに集中していないことも多々あります。
今回撮影禁止だったおかげで、スマホやカメラのレンズではなく、自分の目でじっくり見ることになったのですが、その場で感じた生の感動を、機械のメモリとかSDカードではなく自分の心に直に入れることができたのはとても新鮮でした。
「その瞬間、生身の自分でしか感じられないものの大切さ」に今更ながらハッとさせられ、写真のように手元に残らないからこそ、忘れないように深く刻んでおこうとする思いが、感動の深さを増しているのだろうと思いました。
世の中は何事も便利にスピーディーにと加速してますが、気づけば深く感動することも減っていた気がします。
忙しさに押し流されるだけではなく、たまにはこうして立ち止まって、深く感じ入ることで、より味わい深い時間をすごせる気がしました。
本物を見ることで、不要なものが削ぎ落とされる
私が思う本物とは、魂が込められたものです。
魂とは、すなわち命を灯すもの。
「物」であるにも関わらず、作り手の魂がこめられて、それ自体に命の存在感を感じる。それが本物だと思います。
そんな本物を肌身に感じて過ごしているうちに、今ここに私が存在してるという事そのものに不思議な感覚を覚えました。
筆舌つくしがたい奇妙な感覚になり、まるで自分が魂だけの存在になったかのように、終始意識が覚醒しているような、しかし呆然と圧倒されているような・・・
感慨深い感動の嵐におそわれていました。
何百年もの時を超えて、刀鍛冶職人の魂が刀に宿ったまま現代まで護られつづけ、そして私がいま目の前にしている。これが奇跡というものなんだ…と。
日本という国に生まれて、私はなんと幸せなんだろう。
久々に国宝級の美に触れて、本物を見ることの素晴らしさを改めて体感しました。
そういえば、今学んでいる台湾の武術の老師が、「本物を見て欲しい」とおっしゃっていた事を思い出しました。
本物に触れることで得られるもの。
それは自分自身の本質的な部分が刺激され、本質的でない部分が削ぎ落とされることなのではないか…
それは、ある種の衝撃であり、削ぎ落とされた部分が減っていくように錯覚するけれども、実はシンプルになるほどに研ぎすまされ、自分自身の密度は高まっていくのではないか。
そんなふうに感じた一日でした。
質素な展示ですが、日本刀、伝統工芸、日本の繊細な職人芸に興味がある方におすすめです。
「本物に触れることで削ぎ落とされるもの。刀剣博物館に行ってきた」へのコメント
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