命とココロは燃えつづける。コントロールとは異なる領域で。

ココロは科学できない。

ココロは「いのち」とつながっている。

 

 

分解して解明できたとしても

 

「だから、なんなのか?」

という新たな疑問につながり

 

突き詰めるだけ不毛になっていく。

 

 

心理学というものがあるけど

ココロはそもそも、学問でどうこうできる領域じゃない。

 

 

いのちとは何か?

自分とは何か?

 

ココロの存在は、

そんな深遠な問いかけにつづく道であり、一瞬一瞬に揺れ動く波そのものだから。

 

 

私は、心理学によって救われた部分もある。

 

でも、それが全てじゃない。

 

学問とは、ツールであり、道具である。

だから、それがすべての基準になるなんてことは、ありえない。

 

 

わたしたちはひとりひとり違う。

 

ひとりひとりに

違う答えがあるから

違う基準を持っているのだ。

 

 

いのちは、学問で扱うものじゃない。

それは、地球上で核融合を起こすことくらい、危ういことだと思う。

 

命は、ただ存在していることが重要なんだ。

 

それを、どう利用するのか?という発想自体が、そもそも違うのだ。

 

 

私たちのあずかり知らないところで、ただ起きている。

 

朝日が昇って、暖かな一日がはじまるのは

太陽が、ただ遠くで燃えているからだ。

 

太陽を科学で解明し、核融合のメカニズムを知ったところで、太陽をコントロールすることはできない。

 

地球上で同じことをやってエネルギーを作り出そうとすれば、本来の理から外れ、そこにカオスが現れる。

 

いのちや、ココロも同じだ。

 

命の火は、燃えている。

それは、私たちのココロがそれを望むかぎり、つづいていく。

 

 

それを、方法論によってコントロールすることはできない。

コントロールしようとしたとたん歪みが生まれ、いずれカオスになる。

 

 

目の前に混乱が生じ、気力が失われていく。

 

生きる気力を失えば、いとも簡単に、命の火は消える。

 

 

どちらに進むと、火が消えるのか。

それは、自分のココロだけが知っている。

 

 

情熱の火が消えるほうを選んで

 

後悔したときには

 

つい

理屈をこねて自分を納得させたくなる。

 

 

でも、情熱の火を消すことを選んでいるのは、自分なのだ。

 

 

「情熱ってなんだっけ?」

「そんなもの自分の中には無いんじゃないか」

 

 

そう感じる時は

 

ずっと消しつづけているんだ。

 

情熱の火を。

 

 

忘れているだけ。

 

 

忘れたかっただけ。

 

 

でも「忘れたかった」という願望とおなじくらい

「思い出したい」という願いが疼いている。

 

 

いつか思い出せるようにと

もうひとりの自分が、けなげにも

 

「違和感」という道しるべを、残してくれている。

 

 

 

準備ができたら、たどっていこう。

自分の内側への道。

 

あなたをずっと待っている、もうひとりの自分が待つ場所へ。

 

 

 

剣れいや

 

 

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