こんにちは。
剣れいや(つるぎれいや)です。
今日、ふと数年前の絶望していたときの自分を思い出しました。
あの時は、目の前が真っ暗でした。
おぼろげながらに、こうしたい、こう生きたいというものはあったけれど、そこにたどり着くまでの道のりがまったく見えなかったからです。
そして、誰かを助ける前には、まず自分を助けなければならないという試練。
そして、そこから先は、自分への愛の大きさが、そのまま自分以外の他者への愛の大きさになっていくんだと痛感していました。
なので、もう、外側に目を向けて逃げるわけにはいかなくなったのです。
どんなにごまかしたとしても、現実が変わらないのなら、結局のところ自分が変わっていないだけ、ということ。
そして、外側に目を向けて奔走するのをやめ、
自分と向き合い、満たすという試みをしました。
なんの目的もなく、ひとりでホテルに泊まってゆったりして、くつろいだ後は仕事がものすごくはかどる、という体験もしました。
(それでも”仕事をしない”という選択はできませんでした。中毒かもしれません)
しかし、自分を満たしきってそこから先に行くためには、どうしても超えなければいけない精神的な壁のようなものがありました。
それが、自分軸からライフワークへの転換でした。
自分のために生きられるようになった先に、はじめて見えてくるもの。それは、さらに自分の奥深くへと降りていくプロセスでした。
過去のすべての経験とか、いろんなものをひっくるめて、まじまじと見つめなければならない、けっこう生々しい作業でもありました。
自分が生まれた意味とか、そんなものは実際には無いとしても、何かしら生きるヒントが欲しくて自分の中に深く深く降りていきました。
ときに激しい苦痛もありました。
でも、そのときひとつだけ、私のなかにイメージが降りてきました。
それは、映画の「タイタニック」で見た、ワンシーンでした。
タイタニックの船上の音楽隊は、沈みゆく船の上で、最後まで演奏を続けていましたが、私にとってあのシーンはとても印象的でした。
まあ、私の中で美化されまくった印象ではありますが
沈みゆく船の上で、我先に避難しようとパニックになる人々の群れの中で、ただ演奏をつづける音楽隊。
沈みゆく運命が目前に迫り、その中でも、少しでも不安に荒ぶる人々の心を癒そうとする。
極限状態で愛を表現するって、こういうことなのかもしれないと思いました。
とりあえず、私にとって彼らの存在は強烈であり、強い影響力があったわけです。
そして、それゆえに、私は思うのです。
影響力というのは、テクニックではないのだと。
もちろん
テクニックを駆使すれば、このネット社会、一瞬で有名になることだってできます。
また、お金さえあれば、メディアやあらゆる組織の力を借りて、一躍有名にもなれるでしょう。
でも、そういったことで知名度があがっても、それは一時的であり一瞬で忘れ去られるようなものだと思うのです。
本当に人の心に残るのは、もっと根源的で、深く、重みのあるものだと思います。
そして、本当に深いところでその人の生き方に心を打たれるとき、その人が有名かどうかなんて、正直どうでもいいんですよね。ただただ、深く感銘を受けるだけ。
私が影響を受け、人生を大きく変えるきっかけをくれた人たちは、別に世界的に有名な人でもなければ、テレビに出ているような人でもありません。
彼らは、業界の裏で活動していたり、一部の業界でのみ有名だったりする人です。
私は、過去にその人たちに投資し、実際にお会いし、そして実際に会うことのすごさを体感しました。
「お金は、自分のために払うもの」と聞いていましたが
その人たちへの投資が、イコール自己投資だったので、その言葉も腑に落ちました。
その人と同じ空気を、同じ時間を共有することで、自分の意識が変わり、自分の変化が加速していきました。それはまさに、お金で買えないものをお金で買う感覚でした。
その人たちとお会いして会話をする時間というのは、まったくもって、お金なんかには変えられない価値がありました。
とても抽象度の高い学びだったので、その人たちの言葉を理解し、人生に落とし込むまでに2年はかかりました。
でも、当時まだ理解できなくても、実際に価値を感じたというのは、おそらくその人たちが構築してきた情報の密度というものを、ひしひしと肌身で感じたからだと思います。
影響力の成分内訳
私は、影響力というのは、密度だと思っています。
そして、その密度を決めるのは
愛のスケール
本気度
行動量
この3つだと思っています。
愛のスケール
愛のスケールとは、自分をどれだけ無条件に受け入れられるか、ということで試されるものです。
自分を受け入れられたぶんだけ、相手を受け入れられるからです。自分に許せたぶんだけ、相手にも許せるからです。
自分に制限をかけまくっている人は、その制限を超えて行く人を見るとザワザワして落ち着かなくなるので、攻撃したくなるか、崇拝したくなるか、大抵どちらかになります。
そうなると、自分の人生がその人の影響下から抜けられないので、結局そのステージでぐるぐる同じことを繰り返すことになり、結局なにも変わらないのです。
愛とは、自分を無条件に受け入れることであり、その先に自分が望んだり、叶えたりすることをOKすることです。
それができて初めて、他の誰かのサポートができるのです。だから、自分が自分の望みを叶えていくことこそが、愛のスケールを大きくしていくことに直結していくわけです。
本気度
本気度とは、どんな状況でも決して目的から目を逸らさない強い意思・・・
というとキレイすぎて伝わらないですね。
言い換えます。
本気度とは、狂気度です。
私の人生を大きく変えた人たちは、はっきり言って、みんな狂人でした(笑)
でもやっぱり思うのですが、プロって言うなれば「何か」を変態レベルにまで極めた人たちのことなので、一人で何かを世の中に提供して身を立てるという以上、世間の中で波風立てないような生き方だと、誰にも何も提供できないんですよね。
当たり障りないようにするというのは、何も変化を起こさないということです。
波風立てずに、一般的に世の中でうまくやって生きていくにはベストチョイスかもしれませんが、社会に自分を売り込んでいくのとは真逆のベクトルです。
「ふんふん、なんか良いこと言ってるね。それで?」
って言われて終わりです。
もし、ほんとうに本気だったら、世の中からどう思われようと気になりません。
周りの目が気になっているうちは、本気じゃないんです。
私は、ずっと周りからの評価におびえていた人間だったので、ものすごくわかるのです。
こんなこと言ったら、あの人にどう思われるだろう?
もしかしたらあの人が見てるかもしれない・・・
まさかあの人が、このコメントしてきたんじゃ・・・
そんなふうに、いちいち人目を気にしていました。
でも、思ったんです。
命かけて、人生かけてやりたいことなら、他人の目なんてどうでもいいじゃん、って。
誰かの目を気にして生きたとして、そしていつか死ぬ間際に
「あ〜、本っ当に、いい人生だったなぁ〜!!!」
って思えるだろうか?
と考えたら、まったく思えなかったんです。
というか、私はひとりで死んでいくわけなので、私の人生が幸せだったかどうかって、結局のところ、ぜんぶ私の責任なわけです。
自分を幸せにできるのは、自分だけ。
だから私は、狂気のレベルで
自分の幸せを、やりたいことを、追求していくしかないと考えています。
そして、自分の人生をかけている人の、そういった狂気と本気度を感じた時に、人は現時点の自分の理解を超えたところで、胸を打たれるものだと思うのです。
行動量
おおきなスケールの愛と、本気度があったとしても、これがなければ何も起きない。
それが、行動量だと思います。
私はずっと、ここが苦手でもありました。
なぜかというと、私は知的好奇心を満たすために、インプットばかりしていたからです。
学び中毒とでも言いましょうか。セミナーやら本やらで、とにかく知識をかき集めてコレクションしていました。
私がなぜインプットばかりしていたのか。
簡単です。
リスクが無いからです。
つまり、インプットだけしていれば、自分の実力を見ないで済んだからです。
わかりやすい例えをするならば
新しい仕事を覚える、という時に
研修だけ受けて、実践をしないようなものです。
仕事が上達するわけないですよね。
過去の私は、無意識にですが、ずっとそうやって逃げていました。
そして、そんな自分に気づかなかったため、学んでも学んでも人生が何も変わらない、という現象に悩まされていました。
だからこそ、実践の大切さを身に染みて理解できたわけです。
私は今は、アウトプットこそが命だと思い知ったので、1日で使える時間の80パーセント以上をアウトプットにあてています。
外側に現した時にはじめてフィードバックが来るので、そこでより深く自分を見つめることができます。
まあ、アウトプットが止まる時って、たいていフィードバックが怖いから、アウトプットできないということです。
そこを乗り越えるのに必要なのが、狂気なんです。
剣れいや
「影響力とは、愛のスケール × 本気度 × 行動量」へのコメント
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