こんにちは。
剣れいや(つるぎれいや)です。
昨年末あたりから「地の女性性」が強い方のご相談が多くなってきています。
今回は、地の女性性を強く持つ方が、どうすればもっと自由に変化していけるのか、という視点で、ひとつの「考え方」をご提案していこうと思います。
地の女性性エネルギー
地の女性性というエネルギーを強く持つ方は、
現実的なことが比較的得意で、目の前の現実をしっかり見て、堅実な判断を下せるタイプの方です。
目標を決めたら、しっかり着実に一歩一歩進んでいけますし、地道な行動を継続することのできる粘り強さを持っています。
周りからも信頼され、仕事を任されますし、自分で事業をはじめた場合は、地道に着実に、あせらずに結果を出していくことができます。
ただし、継続する、安定させるという性質が、裏目に出てしまうポイントがあります。
それが、変化が必要な時期、人生の転換期と呼ばれる時期です。
地の女性性が強い方は、確実性を求めるあまり、リスクを恐れて現状維持を選んでしまいがちです。
そうすると、どうしても「過去の自分の判断基準」で物事を決めていくことになりますので、気付いたいらいつのまにかこれまでと同じことを繰り返していた!なんてこともあるのです。
しかし、地の女性性の安定感は、ものごとをしっかりと成し遂げるために、また日々の自分のケアをするために、とても大切な資質です。
もちろん地のエネルギー以外の資質もすべて大切です。
たとえば
火の男性性エネルギーならワクワク感や活気、やる気や生きる意欲を、
風の男性性エネルギーは発想の転換や古い思い込みを捨てるための判断力を
水の女性性エネルギーなら、細やかな感情の機微や、潤いあるロマンをもたらしてくれます。
しかし、それらのエネルギーの割合がどんなに多くなったところで、
地の女性性のエネルギーが無ければ、結果が出るところまで地道に行動する粘り強さも持てませんし、変化した先の生き方を安定させることもできない。
簡単に言うと、地の女性性が足りない場合
ワクワクするビジョンを色々語っていて、いろいろ学んでいて、こんなことをやっていきたい!
っと言っているだけで、人生が何も変わらない。
という状態になってしまうのです。
地の女性性とは、それらのエネルギーを、地に足つけた状態で実行していく力、現実世界で体現していく力、カタチにする力そのものです。
つまり地の女性性は、夢を現実的にカタチにしていくために、とても重要なエネルギーなんです。
これからの時代は大規模な連携プレー
私は、これからの時代って、大規模な連携プレーみたいなものだと思うんです。
スピーディーにアクションを起こすタイプの方が、新時代に向けて先陣切って飛び出し(火の男性性エネルギー)
バランスをとるタイプの方が、その先に必要なエネルギーを判断し、調整していく。(風の男性性エネルギー)
そして、感性の鋭いタイプの方が、ケアやセラピー、またはアーティストとしての表現することで、人々の心と共鳴、共感という形のバックアップ体制をとります。(水の女性性エネルギー)
そこに、現実的な基盤を作るタイプの方が、しっかりと現実的に機能するベースを構築していくのです。(地の女性性エネルギー)
得意分野を「これでもか!」というレベルで楽しんでやる人たちが集まって、面白いことがどんどん展開していく。そんな時代の気配を濃厚に感じます。
私はバランスをとるタイプですが、まさにこれから先の時代、地の女性性のエネルギーが必要だと感じています。
古い時代の基盤も、ある一定期間は維持する必要があります。みんなが一気に移行してしまうと、生活基盤が崩壊してしまいますからね。
だから一定期間、過去を維持するという役割の方もいらっしゃると思います。
でも、すくなくとも、今新しい時代に呼ばれるような感覚を感じている地の女性性の方は、これから先の新しい時代の基盤を作る役割があるのだと思います。
なので、なんとなく落ち着かない方、これまでと同じことを繰り返すのに違和感がある方は、徐々に古いものを手放すプロセスに移行していく時期にさしかかっているわけです。
ぜひ、新しい感覚をお持ちの「地の女性性」の方には、新しい時代に向けて、リスクという幻想を超え、自分の情熱を信じて、一歩踏み出していただきたいと願っています。
所有という幻想から自由になる
地の女性性が強い方がついやってしまうのが、今、目に見えている現実を基準にして、ものごとを判断してしまうことです。
それは、世の中では当然のことのようにされていますから、当たり前のことのように感じるかもしれません。しかし、それを続けていると、自分の中の基準を変えることができません。
その現実の基準の最たるものが、お金と、身体、家などの物質的なもの、目に見える形をとった(就職、結婚などの社会的な契約に基づいた)人間関係などです。
地の女性性の強い方は「所有」という部分にこだわりを持つかたが多いと感じます。
自分が安心できる家、自分が安心できる空間、安全な場所、慣れ親しんだ人間関係、安心できるくらいの額の貯蓄・・・
しかし、この安心するために「所有」する、という考え方が、これからの時代は、落とし穴になりがちだと感じたので、このへんで新しい視点での解説を入れさせていただこうと思いました。
ここからちょっとぶっ飛んだ話をしますが、最後はちゃんと着地しますので、なんとなく目を通していただければと思います。
私たちはそもそも所有することができない
私たちは、本質的な意味において、何かを所有するということができません。
・・・とはいっても、私たちは生きている間、何かを所有し続けているように感じます。
食べ物を買う、衣服を買う、老後のことを考えて家を買う、また、移動のために車を買ったりもします。
それ以外にも、資産形成というカタチで投機的な視点で家やマンションを買う、人気のある車を買う、値上がりしそうな不動産や株を買う
時間とともに価値が高まるワインやアンティーク家具、デザイナーズ家具、ブランド品、芸術作品を買う・・・・いろいろな形での所有がありますよね。
あと、結婚する、家庭を築くという行為も「所有」という言葉には当てはまらないかもしれませんが、
自分の居場所をつくる、自分の影響を濃く及ぼすことができるコミュニティをつくる、という意味において、所有に近い概念だと思います。
つまり「所有」とは、言うなれば「自分の影響を及ぼせる範囲をつくる」ということです。
他人の家に勝手に上がり込んで家具を移動したら、不法侵入で訴えられますが、自分の家の家具を移動したのなら、模様替えをした、という言葉で表されます。
自分の権限、自分の影響がおよぶ範囲、自分で自由に振る舞える範囲ができること、それが「所有する」ということなのです。
これは、会社の経営にたとえると、社員は社長の所有物ではないけれど、社長の判断は社員に影響を及ぼすことができる、ということに近いかな、と思います。
何をお伝えしたいのかというと、
「所有」というのは、つきつめれば、一時的に自分が影響を及ぼせるということであり、自分の判断で、自分の責任で動かせる範囲をつくる、ということ。ただそれだけのことであり、
たとえどんなに欲しいものがあったとしても、それを自分と一体化させることはできないということです。
それはつまり、モノであっても、人であっても、人生の一定期間、そのモノや人と関係性を築くことができる、というだけで、決して自分のものになることはない、ということなのです。
「そんなの淋しすぎる」ということで、自分の肉体と愛すべき何かを一体化させたとしましょうか。
しかし、私たちの肉体も、究極的には自分の意思で所有することはできません。私たちは、死んだら体をあの世に持っていくことはできなくて、魂だけになって還っていくわけです。
もし自分の肉体を所有ができるのなら、死ぬときに「じゃあねー」と旅行に行くかのように体ごとあの世に旅立っていくことでしょう。
そしたら葬儀場やお墓やお寺の仕事は無くなってしまいますが!
肉体すら所有できないなら・・・?
そうです、モノも自分の肉体すらも所有できない、そんな私たちが資本主義社会で生きる上でなくてはならないもの。そして私たちの悩みのタネにもなりうるものがあります。それが
お金。
しかし、肉体すら所有できない私たちですから、お金を所有できるわけがないのです。
ちょっとその前に、前提として重要なことをお伝えしたいと思います。
肉体は命の器なので、存在そのものに価値がありますが、お金は幻想です。
お金というのは、社会システムにおける共同幻想なのです。
お金とは、みんなが信じているから一時的に価値(信用)が保たれている、国単位でシリーズ化がなされている引換券みたいなものです。
信用がなくなったら、お金は本当に紙切れになります。
貨幣価値が下がると「物価が上がった」という言い方をされますが、モノの価値はずっと一定なので、実は貨幣価値だけが上がったり下がったりしているのです。
お金って、制度だけで見たら、本当に不安定なものです。
そんな、価値が上がったり下がったりする引換券がほしいあまりに、これまで私たちは長い間、労働という制度に縛られてきたわけです。
そう考えると、なんか世知辛いですよね。
本当は、お金なんかより、自分の身体のほうがもっとずっと価値があるのに、お金という引換券を得たいあまりに、心も身体もボロボロになるまで働いてしまったり、
お金というもののエネルギーに翻弄され、借金という架空の価値に手を伸ばしまくって、首が回らなくなて命そのものを引き換えにしてしまったり。
自分の人生を楽しむために活用すればいいだけの、お金という引換券に、必要以上にいろいろな感情を乗せすぎて、お金のエネルギーに翻弄されてきてしまったのです。
その「感情」というのは未消化のままの自分の感情です。
無価値観、無力感、怒り、悲しみ、苦しさ、虚しさ・・・
私たちは、知らず知らずのうちに、お金というただの引換券にいろいろなものを乗っけて、必要以上に重たさを感じているのです。
「お金は我慢料だ」
「仕事は命を削ってやるものだ」
そんな言葉が、多くの人のお金との関わり方を象徴しているようです。
私は、この資本主義というルールの世界に疑問を持ったこともあり、本気で自給自足の生活をしようかと考えたこともありました。
でも、考え尽くした先に、思ったのです。
「せっかく資本主義社会の真っ只中で生きてるんだし、このルールの世界で楽しんでから、卒業していくのもいいかな」と。
それから、本気でこの社会でお金と向き合って生きることにしました。
お金は所有するのではなく、流れでとらえる
ここでお伝えしたいのは
「お金なんて嘘だ!稼ぐのも贅沢も悪!」という清貧思想じゃなくて
「もっと楽しんで生きられるように、お金というものの捉え方を変えてみよう!」ということです。
お金は、物や人との関係性と同じで、つねに私たちと流動的な関わりを持つ存在です。
お金も、つねに大きな流れの中にあり、一時的に自分と関係性ができる。ただそれだけのものなのです。
そして、その流れのちいさなところに留まっていると、自分に入ってくる豊かさも小さいままになるし、大きな流れに身を置くように心がけていくと、自分に入っていく豊かさも大きくなっていくのです。
私が10年くらい前から「お金とは何か?」という疑問と向き合ってきて思うことがあります。
お金はエネルギーだとか、貨幣制度だとか、紙切れと金属だとか、ファンレターだとか、共同幻想だとか、ただの数字だとか、いろいろ言われますが
私の経験上、
お金とは、自分の意識やココロの状態を測るリトマス試験紙みたいなもの、だと感じています。
怖れや不安でお金を使う人は、保険とか貯蓄にたくさんお金をかけます。
怒りや衝動でお金を使う人は、ギャンブルや娯楽や買い物にお金をつぎこんでストレスを解消しようとします。
淋しさでお金を使う人は、好きな人が自分から離れていかないようにと、必要以上に相手に貢いで愛をお金で買おうとしてしまいます。
「お金は、使う人によって姿を変える」と聞いたことがありますが、まさにその通りだと感じます。
私は幼い頃から祖母に「お金は怖いもの、お金を持っていると殺される、貧乏がいちばん」だと教えられました。
なので、お金は恐ろしいものであり、そんなお金をたくさん持っているお金持ちはきっと悪なんだ、金の亡者にはなるまい!と幼心に必死でした
しかし、大人になった私は、お金を遠ざけるあまり、借金しなければ生きられなくなり「なんかおかしいぞ」と気づきました。
そして、いろいろ学んできた結果「祖母が見ていたお金」は、単に祖母の世界の真実であり、祖母がお金というものに自分の中の怖れを投影していただけであったことに気づいたのです。
じゃあ、私はお金とどう付き合っていこう?
そう考えたときに、世の中で言われているお金のイメージでとらえるのではなく「自分の人生では、お金はこう捉えよう」というじぶんの生き方が軸になっている必要を感じました。
そして
お金を稼ぐことや所有することを目的とするのではなく、ただ自分らしく生きて人生を楽しむために、必要なサービスを提供してくださる方やお店や組織にどんどん投資し、幸せな気分でお金を流していく生き方にたどりつきました。
そうすると、ちゃんとまた還ってくるんですよね。還ってこないときは、だいたい自分が受け取り拒否をしているだけ。
たとえ社会的に信用され、お金を稼げていても、内面の幸せ度や充実感とはリンクしない。
通帳の預金残高と、自分の内側で感じる安心感は、まったく比例しない。
そんな事実と向き合ってきた先にたどり着いた、私のひとつの答えが、この流していく生き方でした。
剣れいや
「「所有」という幻想から自由になろう。変化が苦手な”地の女性性エネルギー”を動かす」へのコメント
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