従属という自由

久々に、戦争の夢を見た。

 

戦争を体験したこともない

戦争映画も絶対見ない私が

なぜ戦争の夢を見るのか、

まったくわからないが

 

とにかく精神的に参る。

 

ただ、ひとつ

はっきりとした体感があった。

 

司令官の号令に従って

一挙一動すべてが支配された瞬間

 

おかしな話だが

「ある種の完全な自由」を手に入れたような

奇妙な感覚があった。

 

それはまさに

自分で考え、決断しなくて良い、という

 

「自分の責任から逃れることができる」

という意味においての自由

なのかもしれない。

 

 

号令に従い

二列に並んで敬礼をしたとき

 

右斜め前の人は、強烈な戸惑いを感じていたようで

体も目線も、抵抗を示していた。

 

 

対して私は

もうあきらめていた

のだろう。

 

何も考えずに、

命令に従っていた。

 

 

そう。

自分の思いも意思も判断も捨て

体の感覚も無視することさえできれば

 

自分をあきらめることさえできれば

 

従属とは、

この上なく

楽で自由で

快楽という言葉でも表せる気がした。

 

操り人形になっていればいいのだから。

 

 

そして、

そのとき

私はどこにいたのかというと

 

 

居なかった。

 

 

完全に死んでいたのだ。

 

 

肉体という器だけが

取り残され

操られ

 

 

私と言えるものはそこには存在していなかった。

 

 

 

 


話をもどすと

 

私がこの悪夢にうなされたのは

ある動画を公開しよう決めた後だった。

 

 

ある動画を公開しようと決断し

編集していてたら

無性に体がだるくなり

喉も痛くなり

 

何もできなくなり

そのまま意識を失うように寝た。

 

 

 

悪夢から目覚めて思った。

 

 

 

「私は、このまま進もう」

 

 

他人の号令に従って動くだけの

操り人形として生きるくらいなら

私は死を選ぶ。

 

 

表現の解放というと

明るく軽やかなイメージが先行するかもしれないが

 

自分の表現の復活と解放というのは

 

自分との戦いでしかない。

 

 

 

何も知らない頃の自分が

なんとなく表現して居たのとは根底からちがう。

 

 

あらゆる真実を知り

反発し

苦悩し

最終的に受け入れ

その上で

 

 

本当の自分の表現をするというのは

怖れとの対峙でしかない。

 

 

 

しかし、もう言い訳はしない。

 

 

体現する。

 

 

 

 

 

剣れいや

 

 


※ 記事中の「ある動画」について


 

 

 

 

「従属という自由」へのコメント

コメントはありません

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です