サラッと当たり障りなく器用に生きようとしすぎた私は。舞踏〜Butoh〜との出会いを振り返る

こんにちは。
剣れいや(つるぎれいや)です。

 

先日の記事の続きです。

 

舞踏家 大野慶人さんの葬儀に

鏡ざゆら氏とともに参列させていただき

 

心のそこから湧いて来た言葉を

書き留めておこうとおもいます。

 

 


サラッと

当たり障りなく

器用に

生きようとしすぎた

私は

 

 

2016年に

大野慶人さんと出逢って

舞踏と出逢って

 

 

 

私の奥で

何十年も

求めていたものと

 

舞踏の精神とが

化学反応を起こしはじめた

 

 

徐々に

しかし確かに

私は

じぶんの奥の魂らしきものによって

 

そのときから

導かれるように

歩みはじめた。

 

 

魂に反することをすれば

身体が辛くなり

 

頭で動くと

心が悲鳴をあげる。

 

 

魂のいうとおり

 

それは

あまりにも

険しい道だった

 

それでも

これだ!と思えるような

人生を生きたかった

 

何回転んだかわからないが

365日転びつづけて

それが4年続けてたから

1000回以上は転んでる。

 

 

転びつつ

過去のおかしな

こんがらがった糸を

 

眉間にシワをよせて

解きほぐすのをやめて

 

愛を持って

切って

 

そのまま

捨てる

ということを

 

はじめた

 

全身全霊で

自分と向き合って

 

今の自分に出しうる限り

振り絞った答を

 

生きる

 

 

言葉で言うと

綺麗事になる

 

うそくさい。

 

 

だから、

毎日試行錯誤して

毎日転んでた

 

というほうがしっくり来る。

 

 

私は

世の中の何かにあこがれて

 

クールにそつなく

生きようと

しすぎた

 

 

本当は

生々しい

生身の自分と向き合うのを

嫌がって

 

駄々こねて

逃げていただけだった

 

 

私が感じている

色々を

 

いちばん

伝えたい相手は

 

他でもない

自分自身だ。

 

それを誰かに

投影していては

自分を見失う。

 

 

そうなれば

 

 

自分の中に波紋を広げてくれる

可能性を見せてくれる人を

無意識に毛嫌いし

逃げてしまうのだ

 

 

そうなったら

どんなに色々な人に出会おうとも

引きこもったまま

成長できなくなってしまうだろう

 

 

そして

そのことに

自分では

気づかないだろう。

 

 

私は、それが怖ろしい。

 

 

私が人生をとおし

実感してきたのは

既存の概念でも

型でもない

 

 

それが、たまたま

他のだれかのそれと

一部が重なることは

あるかもしれないが

 

私は、

私の人生で起きたことしか

語れない人間だから

 

既存のなにかを

広めるのではないし

 

なにかを研究するとしても

それは自分の表現のためだ

 

 

 

今日

多くの表現者と

はしゃぎまわる天真爛漫なこどもたちと接して

 

私はやはり、

表現者の人たちと接していたいのだと

 

そして自分自身も

表現者でありたいのだと

そうあたらめて感じた。

 

 

 

こんな暖かで実直で純粋な

まっすぐな人たちが

集う場。

 

 

それを作ってくれたのが

大野一雄さん。

 

 

そして、その場を守り

舞踏の精神を伝え続けてくれた

偉大な舞踏家。

 

 

 

 

ありがとう

 

 

大野慶人さん。

 

剣れいや

 

 

「サラッと当たり障りなく器用に生きようとしすぎた私は。舞踏〜Butoh〜との出会いを振り返る」へのコメント

コメントはありません

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です