「スピリチュアルな自分を受け入れられない」ちいさな命が教えてくれたこと。

こんにちは。
剣れいや(つるぎれいや)です。

 

お客さまから、よく「自分のなかのスピリチュアルな能力を疑ってしまう」というご相談をうけることがあります。

 

スピリチュアルという概念自体が、世の中的に「うさんくさい」印象を持たれやすいのもあり、自分の経験を正直に話すと「変な人」とか「やばい人」扱いされてしまったり。そんな方も多いようです。

 

実は私もそうでした。

 

でも、さまざまな経験を経て、自分の感覚に従うのが一番だということに気づいたんです。

今回は、私がそうなるまでの過去の体験談をお話しようと思います。

 


スピリチュアルな自分を否定していた過去の私。

私はずっと、自分のスピリチュアルな性質を否定していました。

幼い頃から予知夢を見ることがあったのですが、夢でみたことが現実になってびっくりしたときでも

「こんなこと打ち明けても信憑性がないよね。そもそも夢で見たことなんて証明できないし」

と思って、誰にも言いませんでした。

やがて、だんだんと、自分が実際に感じたことを、適当にあつかうようになっていったのです。

 

私は思考が優位になりやすいのもあり、感覚的なものも、すべて理論で説明しようとするようになりました。

別に、理論で説明することが悪いわけじゃないんです。

ただ、私の場合、動機がずれていました。

 

純粋に「こういう考え方もあるよ♪」という説明ではなくて、

自己防衛のために理論を振りかざそうとしていたんです。

 

つまり、相手を説得しようとしてしまったのですね。

 

そんな思考ガチガチの性質なのも手伝い、純粋な興味からスピリチュアルな学びを始めたのに、頭ではずっと疑っていました。

 

そんな私を変えていったのは、目の前で起きる現実でした。

現実をつきつけられるたびに、少しずつあきらめがついていったのです。

 

タロットへの挑戦状

タロットを学び始めたときも、思考では「出るカードなんて偶然に決まっている」と疑っていました。

そんなある日、何をおもったのか

私はタロットに挑戦状を叩きつけたのです(笑)

 

「今の自分が最もフォーカスするべきこと」というテーマで、一枚ひいてみました。

 

なるほど。このカードか。と、ひとまずカードを認識しました。

 

次に、ものすごい勢いでシャッフルして「これでどうだ!」とばかりにもう一枚引きました。

 

そしたら、同じカードが出ました

 

ちょっとだけゾワゾワしてきましたが「ただの偶然だ」と言い聞かせ、

さらにさらに念入りにシャッフルしまくって、しまくって……

 

息を整えて……

 

一枚引きました。

 

 

「ぎゃあーーーー!!!」

 

また同じカードが出たのです

 

それから私は観念し、真摯な気持ちで自分とカードに向き合うようになりました。

 

(ちなみに私が使っているタロットカードは、総計78枚のものです)

この出来事を「確率」というテーマで理論的に説明しようとすればできるのかもしれませんが、私にとって重要なのはそこじゃない。

 

大切なのは

この出来事を、どの角度で見て、どんな切り口で捉えたら、最も自分の成長につながるのか?

なんです。

 

大学で研究していて、データを取って学会に発表するとかじゃないんです。

自己探求のためにツールを使うのなら、常に自分主体じゃなければブレていきます。

 

 

このときタロットが私に教えてくれた「今の自分が最もフォーカスするべきこと」は、

「自分自身に対する疑いを直視せよ!」だったのだと思います。

 

ミツバチが教えてくれたこと。

あともうひとつあります。

 

ヒーリングも、頭では疑っていました。

ヒーリングを学んで、ちゃんと修行して習得したのに、です。

 

思い返せば

私は幼い頃、飼っていた小鳥が弱ったときに、両手で包んでエネルギーを送って回復させていました。

 

だから、深いところでは分かっていたはずなんです。

エネルギー自体は目に見えなくても、純粋な想いで接することで、相手の心身の回復を促したり、癒すことができるということを。

 

でも、大人になって、徐々に自分の感覚を疑うことを覚えていったんだと思います。

 

最初のうちは、ヒーリングでお客さんに喜んでいただいても、やっぱり実感としては感じられませんでした。

 

ある秋の日だったでしょうか。

網戸に、ミツバチが一匹止まっていたことがありました。

 

「あ、ミツバチだ。かわいいな」

と思って遠くから見ていたのですが、

なぜかそのミツバチは、時間が経ってもずっとそこから動かないのです。

 

おかしいな、と思って近づいてみると、どうやら足に力が入らないようです。

 

少しよろよろして、小さくちぢこまっていました。

そのままポロっと下に落ちてしまいそうなくらい、危うい感じがしました。

 

私は、ふと思い立って、ミツバチにヒーリングをしてみることにしたのです。

 

精神を集中させて・・・

何分くらい経ったでしょうか。

 

ミツバチは急に、もそもそ動き出しました。

足がしゃきっとして、何やら力をこめて立ち上がりました。

 

ネコが顔を洗うように、前足で触覚をととのえました。

翅を思い切りのばして震わせました。

 

そのときミツバチは、落ち込んでいたときの二倍くらいの大きさに見えました。

 

そして、次の瞬間、

ぶぃーーーーーーん

と元気よく飛び立っていきました。

 

あっというまに見えなくなったミツバチを見送りながら

私は、びっくりして立ち尽くしていました。

 

「わ、分かりやすすぎる・・・」

 

 

目の前で起きる出来事が、私に現実を突きつけてきました。

 

「あなたはこれでもまだ、何かを疑っているの?」と。

 

 

今思えば、当時の私が一番疑っていたのは、他でもない自分自身でした。

 

自分を疑っていたから、いつも自信がなくて

喜ばれても、評価されても、受け入れらなかった。

 

だから、自分の正当性を主張したくて、理論づくめになっていたのです。

 

でも、大切なのはそこじゃないんですよね。

 

 

自分がどう思われるかじゃない。

自分がどういう印象を持たれるかじゃない。

 

正しいか間違っているか

とか、

世の中の評価とか、そういうことじゃなくて

 

自分が純粋に何をしたいのか

自分にとって何が喜びなのか

 

どんな想いで、相手に向き合うのか。

どんな想いで、世の中に打ち出していきたいのか。

 

自分のあり方

自分の動機・・・

 

「それって、なんで、やってるの?」

 

タロットも、小鳥やミツバチも、純粋に、私に問いかけていた。

 

きっと、それを教えるために

彼らは私の目の前に現れてくれたんだと思います。

 

外側に翻弄されるとき

「自分は間違っている」

「自分なんて大したことができない人間だ」

というのと

 

「自分は正しい」

「自分の方が優れた人間だ」

というのは、実は同じことなんだと思います。

 

 

どちらも、

誰かや、何かと自分を照らし合わせているだけだから。

 

正しいか、まちがっているか

優れているとか、劣っているとかって

 

全部、外側の基準です。

 

自信が持てなくて、何もできないと感じる時

逆に

過剰なまでに、世の中に自分を認めさせたいと思う時

 

人は、比較級の世界の住人になってしまっています。

 

外側が基準になっているとき

実は、自分自身を見失っているんですね。

 

世の中に自分は一人しかいないんだから「自分である」という存在の事実が揺らぐわけがないのに。

 

自分が自分であることを受け入れられず、それを疑ってしまう時

 

「自分は、どうありたいか」

「自分は、何が楽しいのか」

 

一番重要な核の部分が、スコーンと抜け落ちたまま、外側に何かを求めて、また走りだしてしまう。

 

 

外側の評価や、正しさに翻弄されるとき

 

自分の才能も魅力も、すべてが

 

外側からの評価を得るための道具になってしまう。

 

そしたら、体も、心も、道具になってしまう。

 

 

人は、見ないようにしているもの、無視しているものにコントロールされてしまうから

 

自分の才能や魅力に振り回される。

心や体の欲求に振り回される。

 

そんな現象も、起きてくる。

 

やっぱり、どんなときも

自分自身と向き合うことが、いちばんの特効薬。

 

 

外側から何を言われたとしても「自分が感じていること」に従うのが一番。

自分で決めたことならば、その結果から、ちゃんと学べるから。

 

 

 

 

剣れいや

 

 

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