こんにちは。
剣れいや(つるぎれいや)です。
私は、現在、
「幸せに自由に豊かに生きるための方法論」を模索しながら、
私が実際に学び、経験したことを元に、独自の哲学を発信しています。
そして、様々なことを学んだ結果、
私が現時点で最も重要だと感じているのが「バランス」です。
そのため、最近は特に「バランス」に焦点を当てて情報発信しています。
今回は、
私がスピリチュアルを信奉していない理由と
その逆に、科学も信奉していない理由をお話しますね。
私がスピリチュアルを信奉しない理由
スピチリュアルとは、英語で
Spirituarl と書きます。
Spirit(スピリット)的な
という意味ですね。
スピリチュアルという言葉は、
怪しい響きをもって受け取られることもあるかもしれませんが
スピリットという言葉はそんなに怪しまれない気がします。
車のCMなんかでも
「走りのスピリットが・・・」なんたらかんたら・・・
とか、老舗ブランドだと、
「創業時から変わらぬスピリットを受け継ぐ・・」
なんていう言い方をしたりします。
日本語だと「精神」と訳されたりしますが、
精神という言葉も、分野や、文化によって異なる捉え方をされます。
そして、スピリット自体は、
計測することも、数値化することもできません。
だから、非常に感覚的で、とらえずらいし
人によって感じ方が違う以上、
だれもが同じ感覚で認識することは難しいものです。
でも、その言葉が認識されている以上
多くの人が、その存在を感じているのです。
スピリチュアルという言葉を私が定義することはできませんが
少なくとも私が学び、扱っているスピリチュアルは
自己探求のためのツールであり
「自分とはなにか」を探していくためのヒントです。
計測できないもの
数値化できないもの
抽象的なものを
自分の人生に生かすためのツールです。
たとえば、
自分って何なんだろう
自分にとって、幸せとは?
私の生まれ持った才能はどんなものなのだろう
といった、
答えのない疑問や質問に対して
おおまかに分類してわかりやすくしてくれるのがスピリチュアル。
抽象的で分かりづらいものごとを、
より分かりやすくして
人生に役立てられるようにすることが
本来のスピリチュアルの役割だと、私は認識しています。
そしてもっと言えば
それらを使って、
人生という舞台に、見失っていた自分自身のキャラクターのヒントを仕入れ
自分の本来の資質を発揮し、魅力を引き出して輝き、
より幸せに生きられるようになるためのものです。
スピリチュアルは、
運勢を占うものとか、相性を占うものだと思われている方も多いでしょう。
しかし、
まず、自分自身を徹底的に知る努力をしようとしなければ
運を活かすことも、
幸せな恋愛をし、パートナーシップを築くことも不可能です。
スピリチュアルと努力なんて、あんまり聞かない組み合わせかもしれませんが
なんでも簡単にできる魔法のようなツールは、この世には存在しません。
どんなツールであれ、たとえそれがスピリチュアルであれ
たゆまぬ努力をし使いこなすことで、自分を磨くことができるのです。
ということは、
スピリチュアルを学ぶことで、問題がうやむやになったり、
地に足がつかなくなってフワフワと現実逃避をする状態になっては、本末転倒なのです。
スピリチュアルが誤解して伝わっていく理由としては、
数値化できず、証明もできないという性質にあると感じます。
そのため、人によって認識があいまいになりやすく
スピリチュアルをサービスとして提供する側が歪んでとらえていたり
また受け取る側も、歪んだままとらえてしまうことが多いのではないかと考えています。
スピリチュアルを人生に取り入れる目的とは
自分の本質に立ち返り、
より幸せに生きるための参考にするためであり
あくまで、ずれてしまった軸を、
自分という中心軸にもどす手助けのために使うのです。
方法論自体を盲信することや、神や天使をあがめること、それ自体が目的ではないのです。
私が科学を信奉しない理由
実験、観察、検証し、数値化する。
論理的思考を使って分析、推測し、体系化する。
人々が、こうした活動をすることによって、
文明が築かれ、発展し、
医療や建築など、
様々な分野が発展し今に至ります。
科学は、今の人類にとってなくてはならないものです。
しかし、私には、
「科学が絶対だ」とは言い切れなくなってしまった、ある原体験があるのです。
・
・
・
小学生の時だったかと思います。
ある日の夕方のことでした。
家には、私と祖母しかおらず、
ふたり並んでソファーに座っていました。
ふいに窓のそとでカラスが
群れをなして騒ぎはじめたのが分かり、なんだろうと思ったのですが
祖母はいきなり
「ああ。誰か死んだのかねぇ」
と言いました。
んなわけないだろと思って黙っていると
いきなり、家の電話が鳴り響いたのです。
祖母は電話に出て、二言三言話をすると、
電話を切って、こちらに戻ってきました。
そして、こう言ったのです。
「7人いた兄弟姉妹の最後の妹が死んだ。これで私は最後の一人になった。カラスが知らせてくれた、カラスは頭がいい・・・」
私はあまりのショックに、何が起きたのか全く理解できず
横で泣いている祖母を、呆然と、ただ黙って見ているしかありませんでした。
・
・
・
ちなみに、その祖母の妹は四国に居たらしいです。
当時、私の実家は北関東にある栃木県でした。
私のこの体験は、科学ではとうてい証明できません。
しかし、私は、この状況を生身の体で体験しました。
この目で見、この耳で聞きました。
そして強烈な驚きがあったから、鮮明に記憶しているのです。
もし科学が絶対で、それ以外は嘘だというのなら
私の体験が夢か幻覚だったと仮定するしか、私の記憶を説明できません。
さらに、私は7〜10年に一度くらいの割合で予知夢を見ることがあり
夢で見たことが現実で起きたりするのですが
それも科学では説明できません。
私が人生で体験したことの、まぎれもない一部を、証明できない。
それゆえ、私は
「科学こそが絶対であり、それ以外は嘘」という理論を信奉することはできないのです。
盲信するのではなく、バランスをとる
私にとって、科学とは
自分の純粋な望みを
現実的に形にするためのツールです。
自分の望みがわかっても、望むだけでは叶わない。
一度きりの人生を、より幸せに生きるために
望んだものを、現実世界で体感し、味わうために
必要なものを探し、分析し、
自分なりの仮説を立て、行動する。
数値化することから逃げず、結果から学ぶ。
そうすることでしか、
自分の人生を
主導権を持って動かすことはできません。
またその逆に
結果だけに固執し、数字を追いかけ
心や愛情、誠意や心遣いなどの
数値化できないものをないがしろにしていると
結果が出ても幸せになれず
無限に満たされることのない無味乾燥なゲームにひた走ることになります。
そんなときに、
自分の本来の目的を思い出すヒントとして
スピリチュアルを役立てることができれば
自分が生まれてきたこと、存在していること自体に喜びを感じたり
人生をかけて成し遂げたいことを思いだしたり
損得勘定を抜きにした人生の喜びや充実感を取り戻せるかもしれません。
そのため、
私は、人が幸せに生きるために
科学とスピリチュアル、どちらが優れているかではなく
双方のバランスが大切だと考えます。
バランスとは、とりつづけるもの
私は、スピリチュアルを学ぶ前に心理学の知識をベースとして持っていたため
一度はスピリチュアルにハマり過ぎそうになりましたが
依存することなく、バランスを保つことができました。
逆に、仕事中毒になっていた時期、
成果主義になって疲れ果て、自分を見失っていた時に
スピリチュアルに出会い、自分を見つめ直すことができ、
幸せを感じることができるようになりました。
片方におおきく振れた振り子は、
止まった地点をスタートとし
また同じエネルギー量で対極に振れます。
一度大きくバランスを崩したら
同じくらい大きく反対側に振れるということです。
だからこそ、大きくバランスを崩す前に
中心に向けてエネルギーを集中させ
なるべく中心に意識を保つ必要があるわけです。
次なる目標に向かって進んでいく。
そのときに私は、きっとまた、何かをやりすぎ、バランスを崩すことでしょう。
しかし、それが自体が悪いことだとは思いません。
大切なのは、崩れた時に、バランスを立て直そうとする意思だからです。
バランスをとるとは、両極に揺れうごきながらも
たえず自分の中心に意識を集中しつづけることです。
自転車は、走りつづけることで
絶えずバランスをとりながら進むことができます。
止まっていたら、倒れてしまうので
足をつきますよね。
でも、それでは進むことができません。
進み続けるには、「バランスを崩してもいいよ」と自分に言ってあげること。
そして、勇気を出して前進し、
バランスを取り続けることです。
バランスの話におちついて、終わりたいと思います。
それではまた!
剣れいや(つるぎれいや)
「私が科学もスピリチュアルも信奉しない理由。」への 1 件のコメント
バランスって大事なんですね。