アーティストが商業主義に走ったらダメな理由を図解します

こんにちは。
剣れいや(つるぎれいや)です。

過去に受け取ってたインスピレーションを描きとめたものがあったので公開します。

私はよく
「なんか思いついたけど、これはまだいいか。後で説明しよう・・・」
と思って何ヶ月も経ってしまうことがあり、悪い癖だと感じるのでいよいよ直そうと思いました。

先送りって、何もいいことないです。
インスピレーションって、賞味期限があるんですよね。その時に必要なことが降りてくるから。

では、はじめていきますね。

アーティストは何をしているのか?

アーティストって、何をしている人なのか?

ここで私が言うアーティストというのは、絵や音楽など芸術作品を創る人だけを指すのではありません。

起業家でも、政治家でも、研究者でも、アーティストとしての性質を持ち合わせて活動している人はたくさんいます。

自身の人生経験をとおして自分の哲学にたどりつき、自らの信念を指針に活動している人たちです。

資質を持っているにもかかわらず、真剣に自分と向き合えなかった場合、アーティストとしての自分自身のあるべき道から外れていくことも多いです。

ちなみに、市場をリサーチして、お客さんの顕在意識に上っているニーズを汲み上げて商品開発するのが商業主義だとしたら、

アーティストタイプの人は、それと同じことをするとめちゃくちゃ苦しくなります。

その理由を今回、図説しようと思います。

アーティストは降ろす人

真ん中のピンクっぽい色のマルが、アーティストです。

クリエイターとも書いてますが、

クリエイターが「創造する人」だとすると
アーティストは「降ろす」人なので

アーティストはインスピレーションを下ろすことが主な役割といえます。

なので、めっちゃ厳密に言えば、アーティストとクリエイターは近い位置にいるけれども異なるわけです。

あと、ちっちゃく「神事」と書いてますが、アーティストとは巫女さんのような役割を果たします。

直感やインスピレーションを受け取りやすいタイプの人ですね。

ただ、受け取った直感とかインスピレーションがすべて正しいかというと、日々の自分のあり方が問われてくる部分が大きいです。

「この時間だけアーティストやります」みたいな「作業」としてアートをとらえることはできないのです。

その人の想いの純粋さと強さが、その人が受け取るものを決める。
想いの強さや純粋さというのは、その人がどれだけ真剣に自分の人生と向き合ったかで決まってくるものです。

アーティスト性が強いタイプの人は、現代社会や流行に興味がなかったり、商業主義に嫌悪感を持っている人も多く、スピリチュアルな感性がとても強い人もいます。

アーキテクトはシステム化する人


次に、水色っぽいマル。
アーキテクトと呼ばれるグループです。

※ 画像内の誤字があった箇所を訂正しました。2022.07.26

アーキテクトと呼ばれるグループは
コネクター、デベロッパー、プロデュサーと呼ばれる人たちで成り立っています。
キュレーターやインフルエンサーと呼ばれるひとたちもこのグループです。

アーティストの表現したビジョンを、社会的に機能させる役割があります。

評論家も、アーティストの表現したいものや個性をしっかりキャッチしながら一般的な言語に落とし込み広げていく、という意味でこのグループに属しています。

大枠を設計する、システムを構築する、メンバーをまとめ上げる、方向性を定めるなどの役割があります。

このグループの人たちは、人やものごとに対する感度が鋭く、

才能のある人を一目で見抜いたり、磨けば光る原石をみつけてスカウトしたり、いいものを持っているのにアプローチの場がない人に人脈を提供する、活躍の場を作って提供することができます。

また、効率の悪い部分に気づき、無駄を削ぎ落としてスムーズに機能するシステムをつくることにも長けています。

異なる立場の人同士や、相反する利害関係など、複雑なものごとをうまく調整するような、バランス感覚が求められる分野でもあります。

エンジニアは創り維持する人


そして、黄色いマル。
エンジニアと呼ばれるグループです。

自分自身の得意な仕事を極めていくタイプの人です。
その仕事とは、ものづくりなどの職人的なものから、技術職、専門職、研究職、接客、調理、事務、清掃、人の心や体のケアなど多岐にわたります。

さきほどの水色のマルで示した、アーキテクトが作ったシステムの中に自分の居場所を見出し、その仕事を極めることが心の底からの喜びになります。

同じことを繰り返すことが苦にならない人、安定を求める人、仲間と調和している状態を求める人が多いのも特徴です。

自分に合わないことをすると疲弊する

図の中でエンジニアに分類したところに「管理」と書いて消したのが見えると思いますが、

管理は、維持するためのもののようでいて、実はアーキテクトの「システム」側にくっついているので消しました。

厳密に言えば、どちらに分類もできない、ちょうど橋のような場所にあると思います。

また、親がそうだったから、みんながそうだから、などの理由で職業を選ぶことが多い場合、自分が本当に向いている場所に気づかなかったりします。

私は30歳半ばまでずっと、自分が職人とか技術者肌なんだと思っていました。
ものづくりも、技術職も、どちらかといえば嫌いではなかったからです。

しかし、職人として多くの人に喜ばれ収入も上がっていった先に、息苦しさと、生きていてもしょうがないと思えるくらいの違和感を経験し、ついにその業界を去り、自分をとりもどす道へと進路変更をしました。

結局私は職人(エンジニア)タイプではなく、アーティスト気質が最も強く、次にアーキテクトのエネルギーが強いことがわかりました。

どれか1つのグループに分類できるわけではないので、稀にどのポジションもまんべんなくできる方もいますが、その場合はアーティスト寄りのアーキテクトに近いポジションがベストかもしれません。

アーティストが商業主義に走る時

この記事のタイトルでは、アーティストが商業主義に走ったらダメと言っていますが

ダメというよりは、マズいと思うのです。

何がマズイかというと、アーティストの本来の役割が果たせなくなるからです。

 

アーティストは、あくまでも、自分の中心とつながってインスピレーションを受け取り、それを表現する、ビジョンを伝えていく役割があると思っています。

なぜそう思うのか?をこれから解説します。

 

図の中の外側の矢印に注目していただきたいのですが

左右にある上むきの矢印は、エンジニアとして社会を支えている人たちの、言語化されていないエネルギーが集合意識に還元されていっていることを表しています。

そして、それを「受信」して、体現していく役割を担っているのがアーティストなのです。

アーティストが表現することで、
その表現をアーキテクトが拡げていき、
社会を支えている人たちに必要なエネルギーが還元される。

このような図式になっているのです。

こうしてエネルギー循環を繰り返すことで、社会がより高い次元へと成長していきます。

 

そこに商業主義が入り込んだ場合、どうなるのかというと

アーティストが、自分の中心からブレて
社会(お客さん)のほうばかり見て作品を作ってしまうのです。

 

それだと、お客さんの顕在意識に上っている欲求だけを満たす作品となり、売れることは売れるかもしれないけど、高いメッセージ性も失われていく可能性が高いのです。

そうなると、何が起きるのか?

社会が成熟するためのアーティストが活躍しずらい状態で、世の中が停滞し始めると

どこかのポジションにいる感受性の強いタイプの人が、集合意識をキャッチして、何かしらの手段でそのエネルギーを顕在化します。

 

それが、ときに犯罪として現れることもあると思っています。

犯罪者ではなく、アーティストになれという言葉を聞いたことがありますが

 

犯罪に走る人というのは、繊細で感受性の強い人が多いのです。

よくニュースとかでとりあげられる犯罪者の印象に対するインタビューでは
「まさかあの人が」と言われるほど人当たりのいい人だったり
「ほとんど人と話さない人だった」と言われるほど引きこもりがちな人だったりします。

感受性が強すぎる人は、周囲の人の過剰なエネルギーの受け止め役になっていたりするので、自己主張のない人だったりします。

そんな人は、キャパオーバーして引きこもってしまったり、ときに歪んだ形で発散してしまったりするのです。

アートの「こうでなければならない」は嘘。

表現に点数をつける。
表現に優劣をつける。

この「評価」という概念は、分離させる「男性性」というエネルギーです。

男性性のエネルギーは分野によってとても重要なものであり、医療や設計など、数値化が必要な技術的な分野に不可欠なものです。

ただし男性性のエネルギーは、使う場所を間違えると不毛な結末になります。

 

アートとは、「ただ存在する」という女性性エネルギーの世界のものです。

女性性には、ジャッジしない、差をつくらないというキーワードがあります。

 

その女性性というエネルギーに対するジャッジは

時に、生まれ出たばかりのアートを切り刻んでしまうのです。

 

アートによる自由が失われたとき、人は表現の手段をなくし、フラストレーションを持て余しはじめます。

 

アーティストが多くの人に何かを提供する時には、そこには鑑賞する人の安全も考慮する必要があるので、アーキテクトの意見や、エンジニアの力を必要とするかもしれません。

しかし、ただ個人として内側にあるものを表現する時、ジャッジが入ってしまうと、内側のものを表現することに対する抵抗だけが膨らんでいきます。

作るからには評価されなければいけない

作るからには売れなければいけない

そうやって、外側の目を気にして作ることで、自分の内側はどんどん傷ついていきます。

 

自分を癒すためだけのアートというものだって、存在していいのです。

 

「こんなことやってて何になるんだ」

というのは、結果や社会的評価を重視しすぎる男性性のエネルギーが過剰になったときに出てくる言葉です。

 

日々のフラストレーションは、単なるストレスではなく、自分からのメッセージそのものです。

もちろん、自分が信じる道をつらぬくためには、食べていくための手段をつくる必要もあります。

私が言いたいのは、100パーセント商業主義になると、アーティストとしての魂が死んでしまうということです。

 

自分の表現したいものを認め、受け入れる女性性と

それを貫く情熱をもち手段を考え続ける男性性。

大切なのは、その2つのエネルギーバランスなのです。

 

 

剣れいや

 

 

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