止まっていた時が動き出すように

あるとき、人は

自分の中の時計を、止めてしまう。

 

それはなぜか?

 

「自分の時」を刻むことに

耐えられなくなるから。

 

 

だれかの期待

だれかの要求

だれかの望みを叶えるために

 

その社会的によろこばしい大義名分のために

自分の中の時を止め

 

 

内なる情熱を消すことを決める。

 

それは、自分以外の誰かに

じぶんのなかの「時」を明け渡すかのように行われる。

 

そして、いつしか

 

時を刻み続けている

活力あるひとを見つけ

心惹かれ

 

その人の中で刻み続ける

その時計を必死で覗きこみ

 

 

かつて自らの内側に響いていた

秒針の音の記憶を

重ね合わせる。

 

 

 

その「音」は

懐かしさをともなって

冷え切った心を揺さぶるけれど

 

けっして心地よいばかりではない。

 

 

なぜなら

 

あきらめて

じぶんの中の「時」を止めたときの

その痛みを、思い出すからだ

 

 

でも

そこには、

絶望と希望とが同居し

 

新しい可能性として現れている。

 

 

破壊と創造は

常に同時に起きる。

 

生と死という現象が

地球上で

同時に起きているように。

 

だから、そこに向かう。

 

怖い?

それは問題ない。

 

これまでつづいてきた

味気ない日常こそが

 

目の前に現れた

希望と同時に現れた、その絶望よりも

自分にとって、はるかに怖ろしいことだったのだ。

 

それに気づけたこと

それが救いだ。

 

いつの日も救世主という存在は

天使の姿をしてはいない。

 

あなたに、

あらゆる負荷をかけ

あらゆる挑戦を迫り

あらゆる絶望を与えてくる

 

それがなければ

きっと、そのまま留まってしまう。

 

よくもわるくもない

慣れ親しんだ惰性の日々に。

 

動き続ける時計の音を

外側に探し回るのをやめたとき

 

自分の中の

止まっていた時が動き出す。

 

それは、決して心地よくはないかもしれないけれど

そのとき、世界は反転する。

 

勇気をもって

一歩踏み出した

その時初めて

 

これまでと違う世界に踏みすこと、それ自体が

唯一の解決策だということに

気づけるから。

 

 

 

剣れいや

 

 

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