「死」について。

こんにちは。
剣れいや(つるぎれいや)です。

 

 

今回は「死」についてです。

 

 

2016 年の記事【夜は墓場で運動会?】 セミナー講師に怒られて気づいた己の封印の続きとして書こうと思いつつ、その時は書けなかったことを、今回書き残してみようとおもいます。

 

 

「なぜ、この人は、死ななければいけなかったのだろう」

私は、幼い頃から、この疑問を抱き続けていました。

 

 

私が幼い頃から、繰り返し経験してきた身近な人の死。

その中には、納得のいかない死もありました。

 

 

私のなかにずっとあった「死への想い」が、無意識に私を突き動かし、今の人生へと進ませていたのかもしれません。

 

 

私は、ずっと「死」について考えながら生きてたような節もあります。

 

 

生まれ育った場所のせいもありますが

 

私は常に「死した人が煙となり天に昇る」のを見ながら育ち

そして、人の死に触れるたび、それについて考えていました。

 

 

母方の祖父は、母が14歳のときに亡くなり

父の最初の奥さんは若くして病気で亡くなっていた。

 

そして、そんな母と父のあいだに、私が生まれた。

 

 

私の「人生」という案内人は、私を「死」への疑問をさぐる旅へと、導きはじめました。

 

 

両親の宗教上の理由で、手術を受けられずに亡くなった、中学時代の後輩。

両親からの期待を背負いきれずに自らの命を絶った、知人の息子さん。

両親から愛ではなくお金を与えられつづけ、愛に飢えて自らの命を絶った友人。

同じ職場で働いていたのに、いつのまにかこの世を去っていた友人。

過労の果てに、海外出張先で亡くなった友人のお母さん。

杜撰な介護システムで半分事故のような状態で亡くなった祖父。

 

 

ある時期から、そういった身近な人の死からは遠ざかっていきましたが

 

「死」に対する拭い去れない疑問は、私の深いところでずっと私を動かしていたのだと思います。

 

 

「死」とは何なのか

なぜ人は「死ぬ」のか

なぜその人は「死ななければならなかったのか」

 

 

それは、私のなかで未消化の思いとなって、わだかまりつづけていました。

 

2016年に見た夢も、また「死」についてでした。

 

戦争、というテーマも含んでいました。

 

また、自分の意思と、体制の敷いたルールの狭間で、ついに自分の心を殺していた感覚。それを呼び覚ますものでもありました。

過去記事『なぜ殺さなければならなかったのか』ハートを開いて戦える人が、一番強い

 

「死」について納得したいがために

さまざまなことを学んできました。

 

 

 

さまざまなスピリチュアルな教えも学んでみました。

 

 

それでも

まだ、答えは出ません。

 

 

確かに、誰かに教えてもらったことを鵜呑みにしていればラクになれるかもしれない。

でも、それでは、私の答えにならない。

 

 

私は、自分が人生をとおして抱えてきた「死」への答えを

これから先、一生かけて探していくのだと思います。

 

 

むしろ、自分がこの地球上で死を迎える瞬間に、悟るようなものなのかもしれません。

 

 

(もし私が老後を迎える頃に宇宙旅行がポピュラーになっていたら、地球上で死ぬとは限らないのかもしれませんが)

 

 

死とは、何なのか。

 

死、闇、暗黒

それらは文明が栄えるほどに、長い間人々から恐れられ、遠ざけられてきたものです。

 

 

しかし、人はまた闇から生まれるものでもあります。

 

 

母親の胎内という真っ暗な闇。

いのちが生まれ、形づくられる。

闇から生命が生まれるというのは、ひとつの宇宙の誕生のようでもあります。

 

 

また、心の闇というのも、人々が恐れているようなイメージとは異なり、

 

暗くても、暖かいものだったりします。

 

 

心の暗闇にそっと足を踏み入れる、そこでしか見えない光もあります。

 

光というより、灯り。

 

また、灯りというより、

 

くすぶる火種のような

 

ささやかにゆらめく炎の息遣い。

 

かすかに、しかし、確かにそこにあるもの。

 

 

 

闇がなければ気づけないものがあるのだとしたら

闇とは、かすかな光を知るために存在している舞台と言えるのかもしれません。

 

 

心の闇に触れることで、希望に気づくことがあるように

 

 

「死」に触れるのは

「生きる」ということに気づくことかもしれません。

 

 

死がなければ生もない。

 

 

全力で生きるというのは、

全力で死に向かっていくことと同意なのかもしれない。

 

 

だから、人は、全力で生きることに恐れを感じるのかもしれません。

 

 

きっと私にとっての「死」の答えは、私の死の瞬間まで保留になっているのでしょう。

 

 

ならば私は、答えを焦らず

答えを探求しつつも、答えに至るプロセスを、一歩一歩、踏みしめていこうと思います。

 

 

 

剣れいや

 

 

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