言い訳なしで、やりたいことをやる。

こんにちは。
剣れいや(つるぎれいや)です。

 

ここ数日で、自分の中の急激な変化が起き

時間の感覚がおかしくなりました。

 

時間はすべての人にとって一定のペースで刻まれているわけではない

そんな言葉を聞いたことがありますが、本当にそうなんじゃないかと思います。

 

今回は、私がアートで自分のトラウマを表現するようになった経緯と、ここ最近の急激な変化をエッセイ調で綴っていきます。

 

本音の自分を表現していなかった自分

プロフィール欄にも書いてますが、私は長い間、表現のトラウマによって、自分の作品が作れない時代がありました。

自分が何を表現したいのかが分からなかったのです。

「よし、描こう」

そう思ってキャンバスを買ってきたはいいが、いざ真っ白な画面に向き合うと、恐怖が沸き起こる。

そのショックで、表現しようという勇気が打ち砕かれました。

 

しかしその後、草間彌生や岡本太郎の生き方、作品に触れたり、ヒーリングや表現アートセラピーに出会って

そうだ!自分の中にあるトラウマそのものを表現すればいい。
それが今の私自身から出て来るものであれば、どんなものでも私自身だ。

と思えるようになったのです。

 

美しい必要なんかない。
素晴らしい必要なんかない。

ホンモノであればいい。

 

 

逆に、美しくても素晴らしくても

その作品が、少しでも周りの評価を気にして作られたものならば

それはその人の生身の真実からかけ離れたニセモノでしかない。

 

デザイナーならいい。
クライアントから要求されたものを作るのが仕事だから。

美しく、カッコよく、魅力的に創りあげれば良い。
商業デザインにおいては、相手が受ける印象がすべての価値だからだ。

 

しかし私は違った。
それが苦痛だった。

のたうちまわった挙句の答え。

 

表現に生きて、表現に死にたい。

 

そう感じた時に、まさに爆発した。

今ではネタとして認識されがちな、あの岡本太郎の言っていた名言の意味が、ようやく肚の底から理解できた。

 

 

これまでは、言い訳していた。

「これでは生活できないから」

 

本当は自分から出て来るものを見たくなかっただけ。
本当の自分の傷を直視するのが恐ろしかっただけ。

認めたくなかっただけ。

 

「アートでは生活できない」

 

親に言われつづけたことだ。

 

「アートでは生活できない」

 

いまだに洗脳されてたのだ。

 

 

私が願う人生は、その次元じゃない。

命がけで、そのままの生身の自分で生きて、死んでいけるなら、どんな人生でも構わない。

そのために、ほとんど捨てた。

 

偽物の自分として生きていた頃に得たもの

 

すべて。

 

 

 

そして

自分を縛るものすべてを断ち切った時

最後に残ったラスボスは

自分だった。

 

敵は己の内にあり。

 

 

この言葉は、ずっと比喩的な精神論だと思っていた。

 

 

そんなことはない。言葉どおりの意味だった。

むしろ、自分の中にしか、敵はいなかった。

それを認めたくないから、誰かのせいにしたかったのだ。

 

存在不安との戦い

心理学で学んだ言葉、「存在不安」

 

わたしはずっと

「自分は存在していいのだろうか」

という不安を抱えていた。

 

そしてその「存在不安」に気づくことを恐れ、感情すべてを抑圧していた。

 

邪魔するものが外部から消え、他人に意識を向けることができなくなったとき、自分との戦いの火蓋は切られた。

 

もう逃げることはできない。

 

手強い自分は、ここから外へは出させまいとする。

そのため、あらゆる手を使って私の恐怖を煽る。

 

快楽と痛み。

すべてを総動員して阻止してくる。

 

私の弱みを知り尽くしているのだ。

なんせ自分だから。

 

自分に正直に生きる?いまどき痛い奴もいるもんだ。もう少し周りの目を気にしろ。そうだよ、真面目にやってればいいんだよ。仕事ってそういうもんだろ。マーケティング、ブランディング、セールス。ちゃんと勉強しろよ。予定立てて、予算組んで・・やることはまだあるんだ、次に・・・

 

あ、これか。もっともらしく私の頭の中でブツブツ言ってたのは。

 

こいつを、抹殺したい。

気づいた。

 

「しなければならないこと」で頭をいっぱいにすれば、存在不安から逃げられる。

その甘い誘惑に負けるところだった。

 

 

巧妙で狡猾な奴なんだ。

知ってるよ、お前は私だから。

 

 

私の中に瀕死の状態で生きてた、幼い頃から信じて待っていてくれた、神レベルに健気な純粋な存在がいる。

その存在が、モラハラ王のそいつから虐待されている。

 

私のどんな逃げも、ごまかしも、その純粋な存在は見抜いていて

悪魔の誘惑になびきつづける私を、絶望のまなざして見ていた。

 

その純粋な存在と、ようやくつながった。

 

ふいに言葉が飛び出してきた。

 

「なんにもしなくていい!!」

 

世界中から誤解と非難が嵐のように巻き起こりそうな言葉。

 

しかし、その言葉はなぜか私の脳を突き破るほどの衝撃をもたらした。

 

「なんにもしなくていい」

 

それはある種の残酷さを孕んでいる。

 

 

なんにもしなくていい。

もし、そんな世界があるとしたら

 

そのとき、何をしたいのか。

 

核心をつくその質問が、闇のベールを脱いで現れた。

 

 

私はその本質に迫る問いに、答える時が来ているのだと察した。

 

 

○○しなければ、という忙しさを、もう誤魔化しに使うことができない。

とうとう本当の意味での生身の自分を生きるときが来たのだろう。

 

 

そして、一番手強いステージに来たのだ。

もう、立ち向かうしかない。

 

 

 

「言い訳なしで、やりたいことをやる。」への 1 件のコメント

  1. 最近、女性性男性性の話から剣さんのブログを見つけ、読んでいます。

    >「しなければならないこと」で頭をいっぱいにすれば、存在不安から逃げられる。

    という一文、刺さりました。

    私はまだ、「なんにもしなくていい」が腑に落ちていない状態です。

    剣さんのブログ、これからも楽しみにしています。

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